・・・船頭なんか、要るものかい、ははん。」 と高慢な笑い方で、「船からよ、白い手で招くだね。黒親仁は俺を負って、ざぶざぶと流を渡って、船に乗った。二人の婦人は、柴に附着けて売られたっけ、毒だ言うて川下へ流されたのが遁げて来ただね。 ず・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿母の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻して、蔵っといてくれた。その絵の事だよ。」 時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も下に置かぬ前から、織次はどうし・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子を映す火の粉であった。 途端に十二時、鈴を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦、早鐘。 早や廊下にも烟が入って、暗い中か・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 折から一天俄に掻曇りて、どと吹下す風は海原を揉立つれば、船は一支も支えず矢を射るばかりに突進して、無二無三に沖合へ流されたり。 舳櫓を押せる船子は慌てず、躁がず、舞上げ、舞下る浪の呼吸を量りて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して漕ぎたりし・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・赫と射る日に、手廂してこう視むれば、松、桜、梅いろいろ樹の状、枝の振の、各自名ある神仙の形を映すのみ。幸いに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。また……人の往来うさえほとんどない。 一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・道路よりも少しく低いわが家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯という・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ほんとに娘をもつ親の習いで、化物ばなしの話の本の中にある赤坊の頭をかじって居るような顔をした娘でも花見だの紅葉見なんかのまっさきに立ててつきうすの歩くような後から黒骨の扇であおぎながら行くのは可愛いいのを通りすぎておかしいほどだ。それだのに・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は文久二年であるそうだ。「蛙の説」を『読売』へ寄書したのは大学在学時代で、それから以来も折々新聞に投書したというから、一部には既に名を認められていたろうが、洽く世・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・大角猶ほ遊人の話頭を記する有り 庚申山は閲す幾春秋 賢妻生きて灑ぐ熱心血 名父死して留む枯髑髏 早く猩奴名姓を冒すを知らば 応に犬子仇讐を拝する無かるべし 宝珠是れ長く埋没すべけん 夜々精光斗牛を射る 雛衣満袖啼痕血痕に・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
出典:青空文庫