・・・この点はプロフェッショナルな批評家の、苦心の要るところだろうと想像される。 自分等のようなものが絵の展覧会を見るのは、何時でも絵を見て楽しむためである。だから、如何に評判の絵でも、自分に興味のないものは一度きりで見ないで済むし、気に入っ・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
・・・この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧の・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・道太はあの時病躯をわざわざそのために運んできて、その翌日あの大地震があったのだが、纏めていった姪の縁談が、双方所思ちがいでごたごたしていて、その中へ入る日になると、物質的にもずいぶん重い責任を背負わされることになるわけであった。それを解決し・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らは出て来るに違いな・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 小説家春の家おぼろの当世書生気質第十四回には明治十八九年頃の大学生が矢場女を携えて、本郷駒込の草津温泉に浴せんとする時の光景が記述せられて居る。是亦当時の風俗を窺う一端となるであろう。其文に曰く、「草津とし云へば臭気も名も高き、其本元・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 京橋区内では○木挽町一、二丁目辺の浅利河岸○新富町旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町旧居留地の中央を流れた溝渠。むかし見当橋のかかっていた川○八丁堀地蔵橋かかりし川、その他。 日本橋区内では○本柳橋かかりし薬研堀の溝渠・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
一 太十は死んだ。 彼は「北のおっつあん」といわれて居た。それは彼の家が村の北端にあるからである。門口が割合に長くて両方から竹藪が掩いかぶって居る。竹藪は乱伐の為めに大分荒廃して居るが、それでも庭からそこらを陰鬱にして居る。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・彼等二人は両親が亡くなって自分等も老境に入るまでしみじみと噺をした事がない。そうかといって太十はなかなか義理が堅いので何事かあると屹度兄の家へ駈けつける。然し彼は何事に就いても少しの意見もなければ自ら差し出てどうということもない。気に入らぬ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・窓を射る日の眩ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手より投げたる梭を左手に受けて、女はふと鏡の裡を見る。研ぎ澄したる剣よりも寒き光の、例ながらうぶ毛の末をも照すよと思うう・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫