・・・半死の船子は最早神明の威令をも奉ずる能わざりき。 学生の隣に竦みたりし厄介者の盲翁は、この時屹然と立ちて、諸肌寛げつつ、「取舵だい」と叫ぶと見えしが、早くも舳の方へ転行き、疲れたる船子の握れる艪を奪いて、金輪際より生えたるごとくに突・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・文学者には異例であろうと思う。 高浜、坂本、寒川諸氏と先生と自分とで神田連雀町の鶏肉屋へ昼飯を食いに行った時、須田町へんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われ・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・それ故わたくしは先哲の異例に倣うとは言わない。唯死んでも葬式と墓とは無用だと言っておこう。 自動車の使用が盛になってから、今日では旧式の棺桶もなく、またこれを運ぶ駕籠もなくなった。そして絵巻物に見る牛車と祭礼の神輿とに似ている新形の柩車・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・一国の領主に言葉を交えるのすら平民には大変な異例でしょう。土下座とか云って地面へ坐って、ピタリと頭を下げて、肝腎の駕籠が通る時にはどんな顔の人がいるのかまるで物色する事ができなかった。第一駕籠の中には化物がいるのか人間がいるのかさえ分らなか・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・左れば舅姑と嫁との間は、其人品の如何に拘らず其家風の如何に論なく、双方をして真に骨肉の親子の如くならしめんとするも、千一万一の異例の外、先ず以て人情世界に行われ難き所望にして、本はと言えば古来流行の女子教育法に制せられ、遂に社会全般の習慣を・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ ジイドは、ミドルトン・マリの評によれば「ほとんど取るに足らない本質的な業績を基礎として、しかも彼のようにヨーロッパ的人物となった作家は蓋し異例と云うべきであろう」ところの作家である。ジイドの箇人主義は、それが日本へも移植されたフェルナ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・を文化にもたらす組織として成立し、事業を物故文芸家慰霊祭、遺品展覧会、昨年度優秀文学作品表彰、機関誌『文芸懇話会』の発行とした。そして昭和九年度の文芸懇話会賞は会員である横光利一氏の「紋章」と室生犀星氏の「兄いもうと」におくられたのであった・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・こういう神秘主義を様々の形にかえてコケおどしの慰霊祭のおかげで、支配者たちは自分の利益のために殺した満蒙出征戦死兵の窮迫した遺族からの反抗をふせいでいるのだ。軍国主義をあふり得るのだ。 イギリスのロッジ博士が戦死した息子からの霊界消息を・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫