・・・「魔が妨げる、天狗の業だ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」大正十年四月 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈な腕を、客商売とて袖口へ引込めた、その手に一条の竹の鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後は尾ノ道、肥後は熊本の刻煙草を指示す……「内務省は煙草専売局、印紙御貼用済。味は至極可えで、喫んで見た・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 僕は手をたたいて人を呼び、まだ起きているだろうからと、印紙を買って投函することを命じた。一つは、そこの家族を安心させるためであったが、もし出来ない返事が来たらどうしようと、心は息詰まるように苦しかった。「………」吉弥もまた短い手紙・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ いまその施薬の総額を見積ると、見舞金が七十人分七百円、薬が二千百円、原価にすれば印紙税共四百二十円、結局合計千二百円が実際に費った金額だ。ところが、この千二百円を施すのに、丹造は幾万円の広告費を投じていることか、広告は最初の一回だけで・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・かかるモラールには真に道にかなう因子が含まれているに相違ないが、人間が人間である限り、道にかなわぬものが混じているのを免れない。ヒルデブラントの道徳的価値盲の説のように、人間の傲慢、懶惰、偏執、欲情、麻痺、自敬の欠乏等によって真の道徳的真理・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・受持の時間が済めば、先生は頭巾のような隠士風の帽子を冠って、最早若樹と言えないほど鬱陶しく枝の込んだ庭の桜の下を自分の屋敷かさもなければ中棚の別荘の方へ帰って行った。 子安も黙って了った。子安は町の医者の娘と結婚して、士族屋敷の方に持っ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・井伏さんのそのような態度にこそ、不敗の因子が宿っているのではあるまいか。 井伏さんと旅行。このテーマについては、私はもっともっと書きたく、誘惑せられる。 次々と思い出が蘇える。井伏さんは時々おっしゃる。「人間は、一緒に旅行をする・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、呆れるばかりに図々しい面の皮千枚張りの詭弁、または、淫祠邪教のお筆先、または、ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。 それらの不潔な虱と、私の胸の奥・・・ 太宰治 「父」
・・・世をのがれ、ひっそり暮した風流隠士のたぐいではなかった。三十四歳で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・ 顔の輪郭の線もまた重要な因子になっていて、これが最も多くの場合に袖の曲線に反響している。めいめいの画家の好む顔の線がそのままに袖のふくらみの線に再現されているのを見いだしてひとりでうなずかれる場合がかなりにある。この現象は古い時代のも・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
出典:青空文庫