・・・と説く処の道理なるに、お通もうかと頷きぬ。かくて老媼がこのよしを蝦蟇法師に伝えて後、鼻は黒壁に見えずなれり。 さては旨いぞシテ操ったり、とお通にはもとより納涼台にも老媼は智慧を誇りけるが、奚んぞ知らむ黒壁に消えし蝦蟇法師の、野田山の墓地・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・平生聞ゆるところの都会的音響はほとんど耳に入らないで、うかとしていれば聞き取ることのできない、物の底深くに、力強い騒ぎを聞くような、人を不安に引き入れねばやまないような、深酷な騒ぎがそこら一帯の空気を振蕩して起った。 天神川も溢れ、竪川・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・人間は、りこうかと思うと、一面は、ばかで、自分から火を出して、自分の住んでいる家も、また、せっかくりっぱに、仲間のためになった街も、みんな焼いてしまう。そんなことは、俺たちが考えたって、想像のつかないことだ。そうして、家が失くなったり、街が・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
お手紙によりますと、あなたはK君の溺死について、それが過失だったろうか、自殺だったろうか、自殺ならば、それが何に原因しているのだろう、あるいは不治の病をはかなんで死んだのではなかろうかと様さまに思い悩んでいられるようであり・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはずに候 一輛のうば車で小児も喜び老人もまた小児のごとく喜びたもうかと思えば、福はすでにわが家の門内に巣・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 曲終れば、音を売るものの常として必ず笑み、必ず謙遜の言葉の二三を吐くなるに反して、彼は黙然として控え、今しもわが吹き終った音の虚空に消えゆく、消えゆきし、そのあとを逐うかと思わるるばかりであった。 自分は彼の言葉つき、その態度によ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 白痴教育というがあることは私も知っていますが、これには特別の知識の必要であることですから、私も田口の主人の相談にはうかと乗りませんでした。ただその容易でないことを話しただけでよしました。 けれどもその後、だんだんおしげと六蔵の様子・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・を変え風俗を変えて元の土地へ入り込み黒七子の長羽織に如真形の銀煙管いっそ悪党を売物と毛遂が嚢の錐ずっと突っ込んでこなし廻るをわれから悪党と名告る悪党もあるまいと俊雄がどこか俤に残る温和振りへ目をつけてうかと口車へ腰をかけたは解けやすい雪江と・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・もう、そのすぐ次に、うかと大事をもらすところであったのである。 一つ、書きたい短篇小説があるのである。そいつを書き上げる迄は、私に就いて、どんな印象をも人に与えたくないのである。なかなか、それは骨の折れることである。また、贅沢な趣味であ・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・ 二つともよく似た趣向なので、あるいは新しいほうが古い人のやったあとを踏襲したのではなかろうかという疑いさえさしはさめるくらいだが、それは自分にはどうでもよろしい。ただ自分もつい近ごろ、これと同様の経験をしたことがある。そのせいか今まで・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫