・・・「どこを?」「頸のまわりを。やられたなと思ってまわりを見ると、何匹も水の中に浮いているんだ。」「だから僕ははいらなかったんだ。」「うそをつけ。――だがもう海水浴もおしまいだな。」 渚はどこも見渡す限り、打ち上げられた海草・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・そんな事を繰り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭を抛り出すと、そうそうまた舟へ帰って来た。「ところがその晩舟の中に、独りうとうとと眠っていると、僕は夢にもう一度、あの酒旗の出ている家へ行っ・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、恐らく父には聞こえていないであろうその跫音を彼は聞き送っていた。彼には、その人たちが途中でどんなことを話し合ったか、小屋に帰ってその家族にどんな噂をして聞かせたかがいろいろに想像されていた・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは喫驚するほど美しいものでした。ジムは僕より身長・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ 鼻筋鋭く、頬は白澄む、黒髪は兜巾に乱れて、生競った茸の、のほのほと並んだのに、打振うその数珠は、空に赤棟蛇の飛ぶがごとく閃いた。が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、逆に立てた。二つ、三つ、四つ。・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・「お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合の深い、旦那、お前様だ。」「いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。」・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・省作はもう顔赤くして、「うそだうそだ。そらおとよさんはおれがあんまり稲刈りが弱いから、ないしょで助けてくれたには相違ないけど、そりゃおとよさんの親切だよ。何も惚れたのどうのってい事はありゃしない。ばか満め何をいうんだえ」 省作も一生・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・としてこの上ない不幸である。若し夫は縁がなくて死んだあとには尼になるのがほんとうだのに「今時いくら世の中が自分勝手だと云ってもほんとうにさもしい事ですネー」とうそつき商ばいの仲人屋もこれ丈はほんとうの事を云った。 旅行の暮の・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ お君というその姪、すなわち、そこの娘も、年は十六だが、叔母に似た性質で、――客の前へ出ては内気で、無愛嬌だが、――とんまな両親のしていることがもどかしくッて、もどかしくッてたまらないという風に、自分が用のない時は、火鉢の前に坐って、目・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「どんな鳥でも呼んでみせるなんて、おまえは、うそをつくのだろう? なんで、そんなことがおまえにできてたまるものか!」と、人々は口々にいって冷笑いました。 すると髪の毛の伸びた、顔色の黒い、目の落ちくぼんだ子供は、じろじろとみんなの顔・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
出典:青空文庫