・・・べき人もないので五十余歳まで身代のあらいざらいつかってしまったのでしょうことなしに親の時からつかわれて居た下男を夫にしてその土地を出て田舎に引き込んでその日暮しに男が犬をつって居ると自分は髪の油なんかうって居たけれどもこんなに落ぶれたわけを・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「ぼくが、かたきを うって あげる。」「だめよ、正ちゃん、とても あっちの 子は つよいんだから。」と、とめ子さんが いいました。 正ちゃんは、おうちへ かけて いって、じぶんの おはじきの ふくろを もって きました。・・・ 小川未明 「はつゆめ」
・・・ 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優が泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが、何時しかその俳優と娘との間には、浅からぬ関係を生じたので・・・ 小山内薫 「因果」
・・・本当に死んでしまったのかとそのアパートを訪れてみると、佐伯はまだ生きていて、うっかり私が洩らしたその噂をべつだん悲しみもせず、さもありなんという表情で受けとり、なにそのおれが死んだというデマは実はおれが飛ばしてやったんだと陰気な唇でボソボソ・・・ 織田作之助 「道」
・・・そして僕のうった鹿が一番大きかった、今井の叔父さんは帰り路僕をそばから離さないで、むやみに僕の冒険をほめた。帰路は二組に分かれ一組は船で帰り、一組は陸を徒歩で帰ることにして、僕は叔父さんが離さないので陸を帰った。 陸の組は叔父さんと僕の・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・舟をこしらえたり、家をこしらえたり、トンボや、飛行機や、いたちや、雉を捕るわなをこしらえたり、弓で海の中に泳いでいる魚をうったり。しかし、どれもこれも役立つようなものは一つもこしらえない。みんな子供の玩具程度のものばかりである。子供の時分に・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・そこは、空気が淀んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱や馬鈴薯の匂いが板蓋の隙間からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・すると、急にその女の同志に対する愛着の感じが胸をうってきた。その女の人は今どうしているだろう? つかまらないで、まだ仕事をしているだろうか。 自動車は警笛をならした。そこは道が狭まかったのだ。おかみさんはチョッとこっちを振りかえったが、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことが・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・島さんのこと、檀君のこと、山岸外史の愛情、順々にお知らせしようつもりでございましたが、私の話の長びくほど、後に控えた深刻力作氏のお邪魔になるだけのことゆえ、どこで切っても関わぬ物語、かりに喝采と標題をうって、ひとり、おのれの心境をいたわるこ・・・ 太宰治 「喝采」
出典:青空文庫