・・・おかずがあっても、おしまいの一膳はお茶づけにして、ほんとにサラサラと流しこむのだったが、おいしそうにひとしきりたべてさてお香のものへ移るというとき、おゆきはきまってリズミカルに動かしていたお箸を、そのリズムのまま軽く茶碗のふちへ当てて一つ小・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・樹幹の風致を充分味わせながら、当然青葉若葉も瞳に映る。明るく、確りしてい、同時に溢れる閑寂を感じる。 私の狭い経験で東京や京都の凝った部屋の植込みが、こんなところは知らない。坐ると、第一に植込みの葉面が迫って来る。種々錯綜した緑の線、葉・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・或人はイブセンの如く燃え立つ自己の正義感と理想とに写る人間の愚悪に忍びず詰問から、書く人がある。或者は、ゲーテの如く思索の横溢から或は又、外界と調和し得ぬ孤独な魂の 唯一の表現として人類は、多くの芸術・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・ただ、真剣に頭に血を上らせて詰め寄せたとても徒労に終る、徒に鋭く、細かく、頭を働かせて事象を描こうとしても、写るものは影ばかりだ。計らず、企らまず、対象に向ってあるがままの我を、底の底まで沈潜させる。極度の静謐、すっかり境界がぼやけ、あらゆ・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・ モーンフル、メモリーとでも呼びたい様な、重い沈んだ気持で、陰の多い部屋に静座して居るのも、顔の熱くなる様な興奮に身をまかせて、自分の眼に写るすべての物を、美くしく、快活に明らかに見るのも共によいものである。 S子の様に、とりとめの・・・ 宮本百合子 「曇天」
・・・ それだから、彼等にとって生徒はまことに有難いものに写るので「生徒さん」と云う名をつけて必(して呼びずてにする事はしなかった。 源平団子と云う菓子屋はいつもこの「生徒さん」達ににぎわされ、その少しさきにある、料理屋兼旅人宿は、花見時・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・有名な精神病院の監禁室の一部が丁度此方向きになっているので、見まいとしても私の眼に、その鉄棒入りの小窓が写る。 空地があるから、一町ばかりある距離を踰えて、斑犬の遠吠えが小窓の中へ聞えるらしい。おや、と気づいて耳を澄していると、大抵一分・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・別離の時のお言葉は耳にとまって……抜き離せばこの凄い業もの……発矢、なみだの顔が映るわ。この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧き起つわ。矢口とや・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・未来は鵜の描く猛猛しい緊張の態勢にあって、やがて口から吐き流れる無数の鮎の銀線が火に映る。私は翌日鵜匠から鵜をあやつった綱を貰ったが、火にもやけぬこの綱は、逆に捻じればぽろりと切れた。この微妙な考案力はどこから来たのかいまだに私は不思議であ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。 ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこの・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫