・・・普通の火事ならば大勢の人が集まっているであろうに、あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた。メートルとキログラムの副原器を収めた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人掛りで消していたが耐火構造の室内は大丈夫と思われた。そ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・女は驚ろいた様もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子に、はたと他の一疋と高麗縁の上で出逢う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里の菓子皿を端まで同行・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・何故と申しまするのに、貴方の下すったお手紙はわたしの心の中を光明と熱とで満したようで、わたしはあれを頂く頃は昼中も夢を見ているように、うろうろしておりましたが、あれがどれだけの事であったやら、後で思えばわたくしには分りません。仮令お手紙を上・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺くちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。さあ、オツベルは射ちだ・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・さあ、あまがえるはみんな泣き顔になって、うろうろうろうろやりましたがますますどうもいけません。そこへ丁度一ぴきの蟻が通りかかりました。そしてみんなが飴色の夕日にまっ青にすきとおって泣いているのを見て驚いてたずねました。「あまがえるさん。・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ にわかに人の出入の多くなった台所へ行って追いやられたり表座敷へ行って叱られたりして居るうちに、門の方にガヤガヤと人声が仕出すと、奥から出て来た母は其処いらをうろうろして居た私に、「其処へ入っておいで。 見ちゃあいけませんよ・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。 あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題を剃って、髪には忠利に拝領した名香初音を焚き込めた。白無・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「さア、今そこにうろうろしていらったが。」 安次は三尺の中から丸めた紙幣をとり出した。「お霜さん。これ持っててくれんかな。二円五十銭あるのやが、何ぞの足しに、ならんかな。」「そんなにたんと預かっておいて、お前使うて了うたらど・・・ 横光利一 「南北」
・・・農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。「馬車はまだかの?」「先刻出ましたぞ。」 答えたのはその家の主婦である。「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早よ来ると良かったのじゃが、もう・・・ 横光利一 「蠅」
・・・そのくせひざまずこうとしている者のようにうろうろしている。 私は彼よりももっと愛し、もっと尊敬する人を持っている。私の生活に食い入っている点から言えば、彼と私との間にはさほど深い関係はない。しかし彼は最も辛辣に私の注意を刺激する。従って・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫