・・・ 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。 廊下には上草履の音がさびれ、台の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・仏蘭西の南部は葡萄の名所にして酒に富む。而してその本部の人民にははなはだしき酒客を見ざれども、酒に乏しき北部の人が、南部に遊び、またこれに移住するときは、葡萄の美酒に惑溺して自からこれを禁ずるを知らず、ついにその財産生命をもあわせて失う者あ・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く潤いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めた・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・学校から纏めて注文するというので僕は苹果を二本と葡萄を一本頼んでおいた。四月九日〔以下空白〕一千九百廿五年五月五日 晴まだ朝の風は冷たいけれども学校へ上り口の公園の桜は咲いた。けれどもぼくは桜の花はあんまり好・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 忠一が悲痛らしく眉を顰めて、「何にしろ、蝦姑だろうね」といった。「全くさ」 大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。「蝦姑にするたあ洒落くせえ!」「でも、本当に、海老なかったのかしら」 小さい声で、思い出したよ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「でも、本当に、海老なかったのかしら」 小さい声で、思い出したようにふき子がいったので陽子は体をゆすって笑い出した。 彼等は昨夜、二時過ぎまで起きて騒いでいた。十時過ぎ目をさますと、ふき子は、「岡本さん、おひる、何にしましょ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・液汁は、芳醇とまではゆかないにせよ、とにかく長年の間くさりもしないで発酵していた葡萄のつゆであった。「播州平野」と「風知草」とは、作者が戦争によって強いられていた五年間の沈黙ののちにかかれ、発表された。主題とすれば、一九三二年以来、作者・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
一、蝦、鰒類、うなぎ、肉類、新鮮な野菜二、味のすっぱいものは食べられません。見た形や色がいやな連想を与えるもの、例えて云うと、近頃焼魚をまるで食べられない如く。〔一九二四年一月〕・・・ 宮本百合子 「すきな食べ物と嫌いな食べ物」
・・・学生は料理屋へ大晦日の晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒に砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵えて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫