・・・ 渠はおいおい声を挙げて泣き出した。 胸が間断なしに込み上げてくる。涙は小児でもあるように頬を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板で、軍歌を・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外国文学の輪講会をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・屠蘇をも一杯飲もうか。おいおい硯と紙とを持て来い。何と書てやろうか。俳句にしようか。出来た出来た。大三十日愚なり元日なお愚なりサ。うまいだろう。かつて僕が腹立紛れに乱暴な字を書いたところが、或人が竜飛鰐立と讃めてくれた事がある。今日のも釘立・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・「おいおい。起きるんだよ。勘定だ勘定だ。」「キーイ、キーイ、クワァ、ううい。もう一杯お呉れ。」「何をねぼけてんだよ。起きるんだよ。目をさますんだよ。勘定だよ。」「ううい、あああっ。ううい。何だい。なぜひとの頭をたたくんだい。・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ *「カン君、カン君、もう雲見の時間だよ。おいおい。カン君。」カン蛙は眼をあけました。見るとブン蛙とベン蛙とがしきりに自分のからだをゆすぶっています。なるほど、東にはうすい黄金色の雲の峯が美しく聳えています。・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・と、彼女はおいおい泣いて亭主にかじりついた。――これが気違いになり始めだと云う噂であった。村へ帰って来ても発狂は治らなかった。然し、何かひどく工合よい機械のように、毎年毎年、年児に女や男の児を産みつづけた。村の人は愕いて居心地わるく感じ・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・ それにもかかわらず、なお女同士の間には次第に社会的な基礎での友情がえられて来ているし、その質もおいおいたかめられ、それを評価し尊重することも学んで来ているのは、どういうわけだろう。そして、そういう成長のあとは、家庭にこもって、親や良人・・・ 宮本百合子 「異性の間の友情」
・・・彼らの心には、絶大微妙な仏力に対する帰依の念が、おいおい高まって来る。そうしてそれは音楽が与える有頂天な心持ちとぴったり相応じている。時々あの高い声の独唱が繰り返されるのも、そのたびごとにいくらか合唱が急調になって行くのも、皆彼らの歓喜をあ・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・しかしその後二年もたつとシンガポールの場末という感じはなくなった。おいおい高層建築が立ち並ぶに従って、部分的には堂々とした通りもできあがって来た。全体としては恐ろしく乱雑な、半出来の町でありながら、しかもどこかに力を感じさせる不思議な都会が・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫