段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客という・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ああよくできたこれでおれはいつ死んでもえいと、父は口によろこばしき言をいったものの、しおしおとした父の姿にはもはや死の影を宿し、人生の終焉老いの悲惨ということをつつみ得なかった。そうと心づいた予は実に父の生前石塔をつくったというについて深刻・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れるほどになったので事をへだてぬ夫婦の間の事だからおいさめになると旦那も今までの事はほんとうに悪かったとさとってそれからはもう心を堅くおきめになったので小吟は奥様を大変にうらんで或る夜、旦那が・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・傾けた徳利の酒が不足であったので、「おい、お銚子」と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「あなたの御関係なすっておいでになる男の事を、ある偶然の機会で承知しました。その手続きはどうでも好い事だから、申しません。わたくしはその男の妻だと、只今まで思っていた女です。わたくしはあなたの人柄を推察して、こう思います。あなたは決して自分・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「ほんとうに、いま、そのお姉さんがおいでたなら、どんなにわたしはしあわせであろう。」と、のぶ子は、はかない空想にふけったのであります。しかし、その願いもかまわないばかりか、せめて、そのお姉さんの顔を一目でもいいから見たいものだと思いまし・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・と、老いたるがんに向かって、いいました。「そのことは、私にもよくわかっている。だから、人間がめったにゆかないところを探すのだ。もっと遠い、寒い国へ向かって旅立ちをするのだ。私がまだ子供の時分、親たちにつれられて通ったことのある地方は、山・・・ 小川未明 「がん」
・・・ 言いおいて、そのまま車夫は行ってしまう。私はじっとそれを見送っていたが、その提灯の影も見えなくなり、その車の音も聞えなくなってしまうと、きゅうにたまらなく寂しくなった。そこで駈けだすようにして、車夫に教わったその横町へ入ると、なるほど・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・その晩も例の如くして、最早大分夜も更けたから洋燈を点けた儘、読みさしの本を傍に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現ともなく、鬼気人に迫るものがあって、カンカン明るく点けておいた筈の洋燈の灯が、ジュウジュウと音を・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・私は力なく起ち上って、じっと川の底を覗いていると、おいと声を掛けられました。 振り向くと、バタ屋――つまり大阪でいう拾い屋らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声は老けていましたが、年は私と同じ二十七八でしょうか、痩せてひょろひょ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫