・・・それはそうと、兎に角今夜はちょっと内へおいでな。そしてわたし共に対して意地を悪くしていないところを見せるが好いわ。少くもわたしに対して意地を悪くしていないということを知らせて貰いたいわ。なぜだか知らないが、誰を敵に持つよりも・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ら貰った五十円も、そろそろ減って居りますし、友人達には勿論持合せのある筈は無し、私がそれを承知で、おでんやからそのまま引張り出して来たのだし、そうして友人達は私を十分に信用している様子なのだから、いきおい私も自信ある態度を装わねばならず、な・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・三島が色褪せたのではなくして、私の胸が老い干乾びてしまったせいかもしれない。八年間、その間には、往年の呑気な帝国大学生の身の上にも、困苦窮乏の月日ばかりが続きました。八年間、その間に私は、二十も年をとりました。やがて雨さえ降って来て、家内も・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 渠はおいおい声を挙げて泣き出した。 胸が間断なしに込み上げてくる。涙は小児でもあるように頬を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板で、軍歌を・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・聯想は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のよう・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・「そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」 襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。 ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折って・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・自分はこの事を考えると、何よりも年老いた父に気の毒だ。せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・私が父や兄に対する敬愛の思念が深ければ深いほど、自分の力をもって、少しでも彼らを輝かすことができれば私は何をおいても権利というよりは義務を感じずにはいられないはずであった。 しかしそのことはもう取り決められてしまった。桂三郎と妻の雪江と・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫