・・・だから余程史料の取捨を慎まないと、思いもよらない誤謬を犯すような事になる。君も第一に先、そこへ気をつけた方が好いでしょう。」 本間さんは向うの態度や口ぶりから推して、どうもこの忠告も感謝して然る可きものか、どうか判然しないような気がした・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 人間的な 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。 罰 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。 罪 道徳・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・危険を冒すだけ損の訣ですね。」 大浦は「はあ」とか何とか云った。その癖変に浮かなそうだった。「だが賞与さえ出るとなれば、――」 保吉はやや憂鬱に云った。「だが、賞与さえ出るとなれば、誰でも危険を冒すかどうか?――そいつもまた・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう…… 蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった――「この松の事だろうか……」 ―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 室内のこの人々に瞻られ、室外のあのかたがたに憂慮われて、塵をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわ・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。「どうぞ」と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。 と見・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ されば法官がその望で、就中希った判事に志を得て、新たに、はじめて、その方は……と神聖にして犯すべからざる天下控訴院の椅子にかかろうとする二三日。 足の運びにつれて目に映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 芳様の跫音が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようでと火花の散るごとく、良人の膚を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽けき呻吟声の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。 制帽の庇の下にものすごく潜める眼・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・後には省作が一筋に思い詰めて危険をも犯しかねない熱しような時もあったけれど、そこはおとよさんのしっかりしたところ、懇に省作をすかして不義の罪を犯すような事はせない。 おとよさんの行為は女子に最も卑しむべき多情の汚行といわれても立派な弁解・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
出典:青空文庫