・・・遠藤は咄嗟に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。 六 その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせたことであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ただあなたの、――あなたのお供を致すのでございます。」 孫七は長い間黙っていた。しかしその顔は蒼ざめたり、また血の色を漲らせたりした。と同時に汗の玉も、つぶつぶ顔にたまり出した。孫七は今心の眼に、彼の霊魂を見ているのである。彼の霊魂を奪・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・「そんな気は誰でも致すものでございますよ。爺やなどはいつぞや御庭の松へ、鋏をかけて居りましたら、まっ昼間空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ小言ばかり申して居るじゃござ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・依怙を致す訣もございませぬ。しかし数馬は依怙のあるように疑ったかとも思いまする。」「日頃はどうじゃ? そちは何か数馬を相手に口論でも致した覚えはないか?」「口論などを致したことはございませぬ。ただ………」 三右衛門はちょっと云い・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・今後は必ずとも、他出無用に致すように、別して、出仕登城の儀は、その方より、堅くさし止むるがよい。」 佐渡守は、こう云って、じろりと宇左衛門を見た。「唯だ主につれて、その方まで逆上しそうなのが、心配じゃ。よいか。きっと申しつけたぞ。」・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ しかし、私が閣下にこう云う事を御訴え致すのは、単に私たち夫妻に無理由な侮辱が加えられるからばかりではございません。そう云う侮辱を耐え忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益昂進する傾があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドッペルゲン・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・が、時々往来のものの話などで、あの建札へこの頃は香花が手向けてあると云う噂を聞く事でもございますと、やはり気味の悪い一方では、一かど大手柄でも建てたような嬉しい気が致すのでございます。「その内に追い追い日数が経って、とうとう竜の天上する・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・その時おかあさんははじめてそこにぼくのいるのに気がついたように、うつ向いてぼくの耳の所に口をつけて、「早く早くおとうさんをお起こしして……それからお隣に行って、……お隣のおじさんを起こすんです、火事ですって……いいかい、早くさ」 そ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
出典:青空文庫