・・・人々は、長い間の版で押したような生活に疲れていました。毎日同じようなことをして、朝になるとはね起きて、働き、食い、そして日が暮れると眠ることにも飽きてしまいました。 みんなは、仲よく暮らすことを希望していましたけれど、どうしても、このこ・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・「ばかにおしでない! 今さらどの面下げて亭主のとこへ行かれるかよ。」「まあそう言わねえでさ。俺あ何もお前と夫婦約束をしたわけでもねえし、ただ何だ、お前は食わせる人がいねえで困ってるし、俺は独者だし、の、それだけの事で、ほかにゃ綾も何・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・あんたはん、どないおしやすか」「お母ちゃん、あて、かなわんのどっせ。かんにんどっせ」その会話は、オーさんという客が桃子という芸者と泊りたいとお内儀にたのんだので、お内儀が桃子を口説いている会話であって、あんたはここに泊るか、それとも帰るかと・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ 三百は念を押して帰って去った。彼は昼頃までそちこち歩き廻って帰って来たが、やはり為替が来てなかった。 で彼はお昼からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行った。顔から胸から汗がぽた/\流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れそうな疲れ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ その女はおしのように口をきかぬとS―は言った。もっとも話をする気にはならないよと、また言った。いったい、やはりの、何人位の客をその女は持っているのだろうと、その時喬は思った。 喬はその醜い女とこの女とを思い比べながら、耳は女のお喋・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 母が爪で圧したのだ、と彼は信じている。しかしそう言ったとき喬に、ひょっとしてあれじゃないだろうか、という考えが閃いた。 でも真逆、母は知ってはいないだろう、と気強く思い返して、夢のなかの喬は「ね! お母さん!」と母を責めた。・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は、一叢生うる緑竹の中に入りて、はるかなる岡の前にあらわれぬ。流れに渡したる掛橋は、小柴の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・霞たなびく野辺といえどもわが家ののどけさには及ぶまじく候 ここに父上の祖父様らしくなられ候に引き換えて母上はますます元気よろしくことに近ごろは『ワッペウさん』というあだ名まで取られ候て、折り折り『おしゃべり』と衝突なされ候ことこれまた貞・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・も少々融通してやるよう相成るべきかと内々楽しみにいたしおり候 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をも・・・ 国木田独歩 「初孫」
出典:青空文庫