・・・彼は個人主義の法治国家のかわりに、社会連帯の利害の上に建設せらるべき文化国家の理想をおき換えることを要請した。文化国家は国家の統制力によって、個人が孤立しては到底得られないような教養と力と自由とを国民に享受せしめねばならぬ。かかる理想から労・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。 鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようや・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・しかし、そこが二階であることは、彼は、はっきり分っていた。帰るには、階段をおりて、暗い廊下を通らなければならなかった。そこを逃げ出して行く。両側の扉から憲兵が、素早く手を突き出して、掴まえるだろう。彼は、外界から、確然と距てられたところへ連・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・密輸入者が国外へ持ちだしたルーブル紙幣を金貨に換える換え場がなくなったのだ。 日本のブル新聞は、鮮銀と、漁業会社に肩を持って、ぎょうぎょうしげに問題を取り上げていた。 しかし、「そうだ、もっと早くから、ルーブル紙幣の暗黒売買を禁止し・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 二年兵は、軍服と、襦袢、袴下を出してくにから着てきた服をそれと着換えるように云った。 うるおいのない窓、黒くすゝけた天井、太い柱、窮屈な軍服、それ等のものすべてが私に、冷たく、陰鬱に感じられた。この陰鬱なところから、私はぬけ出るこ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・然しそれでも帰るときには何べんも何べんもお辞儀した。――お安は長い間その人から色々と話をきいていた。 母親はワザ/\東京まで出てきて、到々自分の息子に会わずに帰って行った。「お安や、健はどうしてた……?」 汽車の中で、母親は恐ろ・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・生活を変えるとは言っても、加藤さんに家へ来てもらって、今までどおりに質素に暮らして行こうというだけのことです。 期日は十一月の三日ということに先方とも打ち合わせました。当日は星が岡の茶寮でも借り受け、先方の親戚二、三人と西丸さん、吉村さ・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・私は自分の住居を宮殿に変えることも出来る。私は一種の幻術者だ。斯う見えても私は世に所謂「富」なぞの考えるよりは、もっと遠い夢を見て居る。」「老」が訪ねて来た。 これこそ私が「貧」以上に醜く考えて居たものだ。不思議にも、「老」まで・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
出典:青空文庫