・・・ 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかしふと気を換えて罷めた。そして爺いさんの後姿を見送っているうちに、気が落ち着いた。一本腕は肩を聳かした。「馬鹿爺い奴。どこへでも往きゃあがれ。いずれ四文もしないガラス玉か何かだろう。あんな手品に乗って気を揉んだのは、馬鹿だった。」こう云・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 日本の教育がなにゆえにかくも齟齬したるやと尋ぬるに、教育さえ行きとどけば、文明の進歩、一切万事、意の如くならざるはなしと信じて、かえってその教育を人間世界に用うるの工風を忘れたるの罪なりと答えざるをえず。人間世界は存外に広くして存外に・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹のかきゅうに陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・四月五日 日南万丁目へ屋根換えの手伝え(にやられた。なかなかひどかった。屋根の上にのぼっていたら南の方に学校が長々と横わっているように見えた。ぼくは何だか今日は一日あの学校の生徒でないような気がした。教科書は明日買う。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・かんぬきをかえ。つっぱり。つっぱり。そうだ。おい、みんな心配するなったら。しっかりしろよ。」オツベルはもう支度ができて、ラッパみたいないい声で、百姓どもをはげました。ところがどうして、百姓どもは気が気じゃない。こんな主人に巻き添いなんぞ食い・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ 婆さんは引かえして何か持って来た。相当空腹であったが、陽子は何だか婆さんが食事を運んで来る、それを見ておられなかった。一人ぼっちで、食事の時もその部屋を出られず、貧弱そうな食物を運んで貰う――異様に生活の縮小した感じで、陽子は落付きを・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 酒屋の御用聞に道を教わって、何年も代えない古ぼけた門の前に立った時、気のゆるみと、これからたのむ事の辛さに落つきのない、一処を見つめて居られない様な気持になった。 大小不同の歩き工合の悪い敷石を長々と踏んで、玄関先に立つと、すぐ後・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・鳩の卵を抱いているとき、卵と白墨の角をしたのと取り換えて置くと、やはりその白墨を抱いている。目的は余所になって、手段だけが実行せられる。塵を取るためとは思わずに、はたくためにはたくのである。 尤もこの女中は、本能的掃除をしても、「舌の戦・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・どの室かと迷って、うしろをふりかえりながら、渡辺はこういった。「だいぶにぎやかな音がするね」「いえ。五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。しばらくこちらで」 さきへ駈け抜けて、東向きの室の・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫