・・・京伝馬琴以後落寞として膏の燼きた燈火のように明滅していた当時の小説界も龍渓鉄腸らのシロウトに新らしい油を注ぎ込まれたが、生残った戯作者の遺物どもは法燈再び赫灼として輝くを見ても古い戯作の頭ではどう做ようもなく、空しく伝統の圏内に彷徨して指を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 八月の赫灼たる太陽の下で、松の木は、この曠野の王者のごとく、ひとりそびえていました。 ある日のこと、一人の旅人が、野中の細道を歩いてきました。その日は、ことのほか暑い日でした。旅人は野に立っている松の木を見ますと、思わず立ち止・・・ 小川未明 「曠野」
・・・齢は五十を超えたるなるべけれど矍鑠としてほとんと伏波将軍の気概あり、これより千島に行かんとなり。 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。 六日、無事。 七日、静坐読書。 八日、おなじく。 九日・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠としていたB家の伯母は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・今日その人はなお矍鑠としておられるが、その人の日夜見て娯みとなした風景は既に亡びて存在していない。先生の名著『言長語』の二巻は明治三十二、三年の頃に公刊せられた。同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、「一、塵いまだたたず、土なほ湿・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫