・・・信念の欠けた生活や、信仰の伴わない空虚な言葉、それらが何んで現実的であり得よう。 どんな人間でも年から年中、異常な感激を持すことは、困難な事である。不断の感激を心に持するということは、其の人が特殊な理想主義者でなければならない。人間性の・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・そこで駈けだすようにして、車夫に教わったその横町へ入ると、なるほど山本屋という軒行灯が目に入った。 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・この子どこの子、ソバ屋の継子、上って遊べ、茶碗の欠けで、頭カチンと張ってやろ。こんな唄をわざわざ教えてくれたのはおきみ婆さんで、おきみ婆さんはいつも千日前の常盤座の向いの一名「五割安」という千日堂で買うてくる五厘の飴を私にくれて言うのには、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した彼が、勇敢にも駈け出した途端に両手に煉瓦を持つて待ちぶせてゐた一人が、立てつづけに二個の煉瓦を投げつけ、ひるむところをまたもや背後から樫棒で頭部を強打したため、かの警官はつひにのめるやう・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・おまけに兵隊にあるまじいことには、兵隊につきものの厚かましさが欠けていた。 このような二人には、だから鶏の徴発は頗るむずかしかった。が、よしんば二人が要領のよい厚かましい兵隊であったところで、隊長の酒の肴を供出するような農民は昭和二十年・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 私は突嗟に起ちあがって、電報を握ったまま暗い石段を駈け下り、石段の下で娘に会ったが同じことを言って、夢中で境内を抜けて一気にこぶくろ坂の上まで走った。そして坂の途中まで下りかけていた彼らの後からオーイオーイF!……と声をかけた。「・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・私は先へ行ってお土産を、と手折りたる野の花を投げ捨てて、光代は子供らしく駈け出しぬ。裾はほらほら、雪は紅を追えり。お帰り遊ばせと梅屋の声々。 四 あくまで無礼な、人を人とも思わぬかの東条という奴、と酔醒めの水を一息に・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と響き渡る高い調子で鸚鵡は続けざま叫び出したので、政法も木村も私もあっけに取られていますと、駆けこんで来たのが四郎という十五になるこの家の子です。「鸚鵡をくださいって」と、かごを取って去ってしまいました。この四郎さんは私と仲よしで、近い・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・気にかかるというには種々の意味が含んでいるので、世間体もあるし、教員という第一の資格も欠けているようだし、即ち何となく心に安んじないのである。それに三円ということは自分も知らなかったのだ、その点は此方が悪いような気もするので、「困ったも・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・潮遠く引きさりしあとに残るは朽ちたる板、縁欠けたる椀、竹の片、木の片、柄の折れし柄杓などのいろいろ、皆な一昨日の夜の荒の名残なるべし。童らはいちいちこれらを拾いあつめぬ。集めてこれを水ぎわを去るほどよき処、乾ける砂を撰びて積みたり。つみし物・・・ 国木田独歩 「たき火」
出典:青空文庫