・・・そこは、サンムトリ山の古い噴火口の外輪山が、海のほうへ向いて欠けた所で、その小屋の窓からながめますと、海は青や灰いろの幾つもの縞になって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き、銀いろの水脈を引いていくつもすべっているのでした。 老技師はし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・それより、まあ、駈ける用意をなさい。ここは最大急行で通らないといけません。」 楢夫も仕方なく、駈け足のしたくをしました。「さあ、行きますぞ。一二の三。」小猿はもう駈け出しました。 楢夫も一生けん命、段をかけ上りました。実に小猿は・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・けれども、その場面場面で一杯にやっているだけで、桃割娘から初まる生涯の波瀾の裡を、綿々とつらぬき流れてゆく女の心の含蓄という奥ゆきが、いかにも欠けている。だから、いきなり新宿のカフェーであばずれかかった女給としておふみが現れたとき、観客は少・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・犬は耳を立て此方を見たが、再び急がしそうに砂に鼻先をすりつけつつ波打ちぎわへ駆け去った。「あら、一寸こんな虫!」 陽子は、腹這いになっているふき子の目の下を覗いた。茶色の小さい蜘蛛に似た虫が、四本のこれも勿論小さい脚でぱッ、ぱッ、砂・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ がたがた馬車が、跳ね返る小馬に牽かれて駆けて往く。車台の上では二人の男、おかしなふうに身体を揺られている。そして車の中の一人の女はしかと両側を握って身体の揺れるのを防いでいる。 ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめて・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈け出して、井の端に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 応化橋の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹が欠け損じた瓶子に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家に四人を留・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば・・・ 横光利一 「南北」
・・・私はこの手紙に論理的連絡の欠けている事を知っています。しかしそれはかまいません。私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を達しました。 空が物すごく晴れて月が鋭く輝いています。虫の音は弱々しく寂れて来ました。私は今あなたと二人で話に夜をふか・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・私の心がある人の不幸に同情して興奮する、私は急いでその不幸を取り除くために駈け出す。私の心が自然の美に打たれて興奮する、私は喜びを現わさないではいられない。すなわち我々の生命活動は何らかの形で自己を表現することにほかならない。 我々が意・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫