・・・ これらの題目のうちで、過去二十年間、日本の婦人雑誌が扱ったことのないというトピックが、只の一つでもあるだろうか。大衆的な某誌は、その反動保守的な編輯方針の中で、色刷り插絵入りで、食い物のこと、悲歎に沈む人妻の涙話、お国のために疲れを忘・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・万一あなたの身に不慮のことがあったとき、指紋さえあれば、すぐあなたの身元がわかりますから、と云われて、うれしい世の中と思うひとがあるだろうか。水夫は、水難し、漂着したときの目じるしに、いろいろ風の変った入れずみをする。だからと云って世界周遊・・・ 宮本百合子 「指紋」
・・・ このスムールイは、呆れる程ウォツカを飲むが酔っぱらったためしがなかった。水夫長も料理人も、船じゅうのものがこの男の怪力と一種変った気風に一目置いていた。夕方、スムールイが巨大な体をハッチに据えて、ゆるやかに流れ去って行くヴォルガの遠景・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・スムールイは、一度ならずその嘘のような腕力をふるって水夫や火夫の破廉恥で卑劣ないたずらから少年ペシコフをまもったのであった。 十歳の時、ゴーリキイは詩のようなものをつくり、手帖に日記を書きはじめた。日々の出来事と本から受ける灼きつくよう・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
・・・同じく文壇の評ではあるが、これは過去の文壇の評で、しかもその過去の文壇の一分子たりし鴎外漁史の事である。原と主筆が予に文壇の評を求められるのは、予がかつて鴎外の名を以て文学の事を談じたという宿因あるが故だ。ここに書くところは即ち予の懺悔で、・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・目的を問う愚もなさず、過去を眺める弱さもない。ただ一点を見詰めた感覚の鍔競り合いに身を任せて、停止するところまで行くのである。未来は鵜の描く猛猛しい緊張の態勢にあって、やがて口から吐き流れる無数の鮎の銀線が火に映る。私は翌日鵜匠から鵜をあや・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・私は時にいくらかの誇張をもって、絶望的な眼を過去に投げ、一体これまでに自分は何を知っていたのだとさえ思う。 たとえば私は affectation のいやなことを昔から感じている。その点では自他の作物に対してかなり神経質であった。特に自分・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫