・・・ ふと鳥影が……影が翳した。そこに、つい目の前に、しなやかな婦が立った。何、……紡績らしい絣の一枚着に、めりんす友染と、繻子の幅狭な帯をお太鼓に、上から紐でしめて、褪せた桃色の襷掛け……などと言うより、腕露呈に、肱を一杯に張って、片脇に・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・上げて、小さな円髷に結った、顔の四角な、肩の肥った、きかぬ気らしい上さんの、黒天鵝絨の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を嵌めた手に、細い銀煙管を持ちながら、店が違いやす、と澄まして講談本を、ト円心に翳していて、行交う人の風采を、時々、水牛・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・今度からは汝達にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら、自分は味噌の方を火に向けて片木を火鉢の上に翳した。なるほどなるほど、味噌は巧く板に馴染んでいるから剥落もせず、よい工合に少し焦げて、人の※意を催させる香気を発する。同じようなのが二枚出・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 美しい洋傘を翳した人々は幾群か二人の側を通り過ぎた。互に当時の流行を競い合っての風俗は、華麗で、奔放で、絵のように見える。色も、好みも、皆な変った。中には男に孅弱な手を預け、横から私語かせ、軽く笑いながら樹蔭を行くものもあった。妻とす・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・自分は笑って、袖を翳してみる。「さっきね」と、藤さんは袂へ手を入れて火鉢の方へ来る。「これごらんなさい」と、袂の紅絹裏の間から取りだしたのは、茎の長い一輪の白い花である。「このごろこんな花が」「蒲公英ですか」と手に取る。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・唯一つの火鉢へ二三人が手を翳して居る。他の瞽女はぽっさり懐手をして居る。みんな唄の疲が出たせいか深い思に沈んだようにして首をかしげて居る。太十は尚お去ろうともしなかった。突然戸が開いた。太十は驚いて身を引いた。其機会に流し元のどぶへ片足を踏・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・これを翳して思う如く人々を驚かし給え」 ランスロットは腕を扼して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。「次男ラヴェンは健気に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・寒いから火鉢の上へ胸から上を翳して、浮かぬ顔をわざとほてらしていたのが、急に陽気になった。三重吉は豊隆を従えている。豊隆はいい迷惑である。二人が籠を一つずつ持っている。その上に三重吉が大きな箱を兄き分に抱えている。五円札が文鳥と籠と箱になっ・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ウィリアムは幻影の盾を翳して戦う機会があれば……と思っている。 白城の城主狼のルーファスと夜鴉の城主とは二十年来の好みで家の子郎党の末に至るまで互に往き来せぬは稀な位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年の春の初からである。源因は・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 帰期を報らせに来た新造のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳し頬を焙り、上の間へ耳を聳てている。「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。「もすこし前五時を報ちましたよ」「え、五時過ぎ。遅・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫