・・・その代り河水はいつも濁って澄むことなく、時には臭気を放つことさえあるようになったのも、事に一利あれば一害ありで施すべき道がないものと見える。浅草の観音菩薩は河水の臭気をいとわぬ参詣者にのみ御利益を与えるのかも知れない。わたくしは言問橋や吾妻・・・ 永井荷風 「水のながれ」
隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。 その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四・・・ 永井荷風 「向島」
・・・蒲田で、澄子その他が麻雀をして遊んでいると、その遊戯を知らない何とか君という、ひどく太い眉毛の若者が傍のソファで仮睡をし、夢で女賊マジャーンに出会するという筋なのだが――マジャーンが、スワンソンの蜂雀通りの扮装でスクリーンの上に蜂雀通りの順・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・明るいながら朝になっても、おのずから朝の空気は新鮮に流れ出して、暁の微風が樹々の梢をそよがせはじめるし、河水の面が生気をもどして、雀も囀りはじめて来る。 やがてそろそろ朝日に暑気が加って肌に感じられる時刻になると、白いルバーシカ、白い丸・・・ 宮本百合子 「モスクワ」
・・・中核の圧力をこめてつたえて岸を撃ち、河の力がこわした堤の土の下に埋まることもあるこの岸沿いの河水の意味を、「女の一生」の中で作者は何故認め得ないのであろう。「何にしても生活が」根本だということ、「思想というものは母の愛とか肉親の愛という・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
・・・ 赤や黄色の星どもは、布の上からこぼれ落ちそうに燦きます。仮睡んでいた月は静かに一廻りして皎々と照り出します。いつか出て来たお婆さんはその中で、楽しそうに美しい絹糸を巻き始めました。三匹の鼠は三つの処に分れて立ち、糸車のように体の囲りで・・・ 宮本百合子 「ようか月の晩」
出典:青空文庫