・・・どういう事が問題になっているのか、肝心の事は分らなかったが、何でも議長が何かをどうかして、それからどうとかすべきはずなのを、そうしなかったのが不都合だと云って攻撃しているようであった。この人の出し得る極度の大きな声を出しているという事は、そ・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・そして過ぎ去った青春の夢は今幾何の温まりを霜夜の石の床にかすであろうか。 彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今幾何の効果を墓の下に齎そうとしているのであろう。 このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処と・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・ このきたない土瓶からきたない水を湯飲みか何かにくみ出して、それにどっぷりおはぐろ筆を浸す。そうしてその筆の穂を五倍子箱の中の五倍子の粉の中に突っ込んで粉を充分に含ませておいて口中に運ぶ、そうして筆の穂先を右へ左へ毎秒一往復ぐらいの週期・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらし・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・欄下の溜池に海蟹の鋏動かす様がおかしくて見ておれば人を呼ぶ汽笛の声に何となく心急き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上れば艫に水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。 次に目に・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・写真乾板の感光膜をガラスからはがすために特殊の薬液に浸すと膜が伸張して著しいしわができるのであるが、そのしわが場合によっては上記の樹枝状とかなりよく似た形を示すことがある。また写真乾板上の一点に高圧電極の先端を当てて暗処で見るとその先端から・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・この見はるかす何十町という田圃や畑の地主は、その山荘庵の丘の上の屋敷に住んでいる大野という人であった。 善ニョムさん達は、この「大野さん」を成り上り者と蔭口云うように、この山荘庵の主人はわずか十四五年のうちに、この村中を買占めてしまった・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・お悦は真赤な頬をふくらし乳母も共々、私に向って、狐つき、狐の祟り、狐の人を化す事、伝通院裏の沢蔵稲荷の霊験なぞ、こまごまと話して聞かせるので、私は其頃よく人の云うこっくり様の占いなぞ思合せて、半ばは田崎の勇に組して、一緒に狐退治に行きたいよ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫