・・・別に証拠といってはないのだから、それが、藤さんがひそかに自分に残した形見であるとは容易に信じられるわけもない。しかし抽斗は今朝初やに掃除をさせて、行李から出した物を自分で納めたのである。袖はそれより後に誰かが入れたものだ。そしてこの袖は藤さ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ ひと一人、くらい境遇に落ち込んだ場合、その肉親のうちの気の弱い者か、または、その友人のうちの口下手の者が、その責任を押しつけられ、犯しもせぬ罪を世人に謝し、なんとなく肩身のせまい思いをしているものである。それでは、いけない。 うっ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・あの家の屋賃は、もともと、そっくり僕のお小使いになる筈なのであるが、おかげで、この一年間というもの、僕は様様のつきあいに肩身のせまい思いをした。 いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていた頃であ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・をして、それも一度や二度でない、たび重なる大しくじりばかりして、親兄弟の肩身をせまくさせたけれども、しかし、せめて、これだけは言えると思う、「ただ金のあるにまかせて、色男ぶって、芸者を泣かせて、やにさがっていたのではない!」みじめなプロテス・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の田圃路を顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・討死と覚悟きめて、母のたった一つの形見の古い古い半襟を恥ずかしげもなく掛けて店に出るほど、そんなにも、せっぱつまって、そこへ須々木乙彦が、あらわれた。 はじめ、ゆらゆら眼ざめたときには、誰か男の腕にしっかり抱きかかえられていたように、思・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・それがまあ多少のゆかりをたよって田舎へ逃げて来て、何も悪い事をして逃げて来たわけでもないのに肩身を狭くして、何事も忍び、少しずつでも再出発の準備をしようと思っているのに、田舎の人たちは薄情なものです。私たちだって、ただでものを食べさせていた・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・惣助はそのあくびの大きすぎるのを気に病み、祝辞を述べにやって来る親戚の者たちへ肩身のせまい思いをした。惣助の懸念はそろそろと的中しはじめた。太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をた・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向いた自身の口をもって行って、見る・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・ 四 子規の家から不折氏の家へ行く道筋を画いて教えてくれたものが唯一の形見として私の手許に残っている。それは子規氏の特有の原稿用紙(唐紙? に朱罫いっぱいに画いた附近の略地図である。右上に斜に鉄道線路が二本引・・・ 寺田寅彦 「子規の追憶」
出典:青空文庫