・・・俺は腹が減っているようで、食ってみると然しマンジュウは三つといかなかった。それで残りをその男にやった。「髯」は見ている間に、ムシャムシャと食ってしまった。そして今度はトマトを食っている俺の口元をだまって見つめていた。俺はその男に不思議な圧迫・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・貧しい母を養おうとして、僅かな銭取のために毎日二里ほどずつも東京の市街の中を歩いて通ったこともある足だ。兄や叔父の入った未決檻の方へもよく引擦って行った足だ。歩いて歩いて、終にはどうにもこうにも前へ出なく成って了った足だ。日の映った寝床の上・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・「そうでしたかなあ。とにかく小母さんを一と目見るとから、何かしら懐しくなったんです」「そんなにおっしゃったものですから、小母さんもしおらしい方だと思って、お世話をする気になったんですって」「私は今では小母さんが生みの親のように思・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・博士はマッチの火で、とろとろ辻占の紙を焙り、酔眼をかっと見ひらいて、注視しますと、はじめは、なんだか模様のようで、心もとなく思われましたが、そのうちに、だんだん明確に、古風な字体の、ひら仮名が、ありありと紙に現われました。読んでみます。・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである。 津島の勤め先は、どこだっていい。所謂お役所・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ないのである。 やがて、あから顔の教授が、ふくらんだ鞄をぶらさげてあたふたと試験場へ駈け込んで来た。この男は、日本一のフランス文学者である。われは、きょうはじめて、この男を見た。なかなかの柄であって、われは彼の眉間の皺に不覚ながら威圧を・・・ 太宰治 「逆行」
・・・樹名を書いた札のついているのは有難いがなかなか一度見たくらいでは覚えられそうもない。 池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでいたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいって来た。腰を下ろしたと思うと御主人が「や、しま・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・それが、どうしたのかひどく折れ曲って変態仮名の※の字のようになっているのがある。トラックでも衝突したかと思われる。鉄棒がこんな目に遭うくらいだから人間にとってはあまり安全な地帯でないのである。従ってこの曲った標柱は天然自然の滑稽であり皮肉で・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
出典:青空文庫