・・・ 頃合をはかって、善ニョムさんは寝床の上へ、ソロソロ起きあがると、股引を穿き、野良着のシャツを着て、それから手拭でしっかり頬冠りした。「これでよし、よし……」 野良着をつけると、善ニョムさんの身体はシャンとして来た。ゆるんだタガ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・朽ちた丸木橋の下では手拭を冠った女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播かれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。 一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・しばらくはわが足に纏わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹と立ち直りて、繊き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩ゆき光り矢の如く向い側なる室の中よりギニヴィアの頭に戴ける冠を照らす。輝けるは眉間に中る金剛石ぞ。「ランスロット」・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そのチャンチャン坊主の支那兵たちは、木綿の綿入の満洲服に、支那風の木靴を履き、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、辮髪の豚尾を背中に長くたらしていた。その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼ことがなくなり、時々耄碌頭巾を冠ッて忍んで店まで逢いに来るようになッた。田甫に向いている吉里の室の窓の下に、鉄漿溝を隔てて善吉が立ッているのを見かけた者もあッた。 十 午時過・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その言にいわく、近来我が国の子弟は、その品行ようやく軽薄におもむき、父兄の言を用いず、長老の警をかえりみず、はなはだしきは弱冠の身をもって国家の政治を談じ、ややもすれば上を犯すの気風あるが如し。ひっきょう、学校の教育不完全にして徳育を忘れた・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・長き黒き天鵞絨の上着を着し、顔の周囲に白きレエスを付けたる黒き天鵞絨の帽子を冠りおる。白き細き指にレエスの付きたる白き絹の紛※を持ちおる。母は静に扉を開きて出で、静に一間の中母。この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・修禅寺に詣でて蒲の冠者の墓地死所聞きなどす。村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・顔がむくむく膨れていて、おまけにあんな冠らなくてもいいような穴のあいたつばの下った土方しゃっぽをかぶってその上からまた頬かぶりをしているのだ。 手も足も膨れているからぼくはまるで権十が夜盗虫みたいな気がした。何をするんだと云ったら、なん・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ お前の御主のダイアナも月の冠をかむって御出でるから美くしいのだ、まばゆい車にのっていらっしゃるから立派なのだ。 お前の方がよっぽど美くしいと私は思って居るのだ。精女、沈黙。ペーン ネー、シリンクス? 私は一寸ためら・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
出典:青空文庫