・・・かつ中学へ通う小さい弟と一緒に暮していたから自然謹慎していた。緑雨の耽溺方面の消息は余り知らぬから、あるいはその頃から案外コソコソ遊んでいたかも知れないが、左に右く表面は頗る真面目で、目に立つような遊びは一切慎しみ、若い人たちのタワイもない・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・すると母は、『お前、昼眠をせんで起きているのか、頭に悪いから斯様熱いのに外へは出られんから少し眠て起きれ。』といって、また其儘眠ってしまった。私は、張合が抜けて父の室に行って見ると、新聞を読んでいた父もいつしか眼鏡をかけたまゝ、手枕をして眠・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・この町の小供等は、二人の西洋人の後方についてぞろぞろと歩いていた。斯様に、子供等がうるさくついたら、西洋人も散歩にならぬだろうと思われた。山国の渋温泉には、西洋人はよく来るであろう。けれど其れは盛夏の頃である。こう、日々にさびれて、涼しくな・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・『町って、別にありません』 これが、舞子か……と私は、思っていたより淋しい処であり、斯様処なら、越後の海岸に幾何もありそうな気がした。 亀屋という宿屋の、海の見える二階で、臥転んで始めて海を見た。いつになく、其の日は曇っているの・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・窓は閉めて、空気の通う所といっては階子の上り口のみであるから、ランプの油煙や、人の匂や、変に生暖い悪臭い蒸れた気がムーッと来る。薄暗い二間には、襤褸布団に裹って十人近くも寝ているようだ。まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方閉め切ったその部屋のどこにも風の通う隙間はなく、湿っぽい空気が重く澱んでいた。私は大気療法をしろと言った医者の言葉を想いだし、胸の肉の下がにわかにチクチク痛んで来た、と思った。 まず廊下・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・工面して通う自分をあさましいと思った。なぜ通うのか訳がわからなかった。惚れているという単純な言葉がなかなか思いつかなかった。嫌悪しているものに逆に引きつけられるという自虐のからくりには気がつかなかった。ある朝、妓が林檎をむいてくれるのを見て・・・ 織田作之助 「雨」
・・・夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。 固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻燈のように写し・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・――その日から自分はまた、その日の獲物だった崖からの近道を通うようになった。 それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。 いつもの道から崖の近道へ這入った自分は、雨あがりで下の赤土が軟くなっているこ・・・ 梶井基次郎 「路上」
一 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくな・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫