・・・苦しさ、この苦しさは旱魃だ。乾く。心が痛み、強ばり罅が入る。 私はどうかして一晩夢中で悲しみ、声をあげて泣き、この恐ろしい張りつめた心の有様から逃れたい。私の感傷は何処に行った。ああ本当に泣けさえしたら! 考えて見れば、私は、彼の行・・・ 宮本百合子 「文字のある紙片」
・・・提灯に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。 川も見えず、船も見えない。玉や鍵やと叫ぶ時、群集が項を反らして、群集の上の花火を見る。 酉の下刻と思われる頃であった。文吉が背後から九郎右衛門の袖を引いた。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 厄難に会った初めには、女房はただ茫然と目をみはっていて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分はほとんど何も食わずに、しきりに咽がかわくと言っては、湯を少しずつ飲んでいた。夜は疲れてぐっすり寝たかと思うと、たびたび目をさま・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・小川は吭が乾くので、急須に一ぱい湯をさして、茶は出ても出なくても好いと思って、直ぐに茶碗に注いで、一口にぐっと呑んだ。そして着ていたジャケツも脱がずに、行きなり布団の中に這入った。 横になってから、頭の心が痛むのに気が附いた。「ああ、酒・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫