・・・踊って、すらと形のきまる度毎に、観客たちの間から、ああ、という嘆声が起り、四、五人の溜息さえ聞えた。美しいと思ったのは私だけでは無かったのである。 私は、その女の子の名前を知りたいと思った。まさか、人に聞くわけにいかない。私は十二の子供・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・学童は、観客に対して正面を向き、気を附けの姿勢を執り、眼をつぶって、低く歌う。はる、こうろうの花のえん、めぐるさかずき、影さして、ちよの松がえ、わけいでし、むかしの光、いまいずこ。(机・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・なって、やはり自身の、ありあまる教養に満足しながら、やたらにその文句を連発してサロンを歩きまわって、サロンの他の客はひとしく、これには閉口するところが、在ったように記憶しているが、私は、いまだったら、観客席から、やにわに立ち上り大声あげて、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。 ――あの日、寒かったわね。雪が降っていたんだもの。――あたし、とても生きていられないような、――でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・「一般に剽窃について云々する場合に忘れてならないのは、感覚と情緒を有する限りすべての人は絶えず他人から補助を受けているという事である。人々はその出会うすべての人から教えられ、その途上に落ちているあらゆる物によって富まされる。最大なる人は・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ 鴨羽の雌雄夫婦はおしどり式にいつも互いに一メートル以内ぐらいの間隔を保って遊弋している。一方ではまた白の母鳥と十羽のひなとが別の一群を形づくって移動している。そうしてこの二群の間には常に若干の「尊敬の間隔」が厳守せられているかのように・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 人形の顔とその動作の強調の必要は、一つにはまた観客と人形との距離からも起こってくる。これと反対の場合は映画における大写し、いわゆるクローズアップの場合である。この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・と思う絵を観客に自由に遠慮なく投票をさせて、オストラキズムの真似をしたらどうかと思う。推賞する方の投票だと「運動」が横行して結果は無意味に終るにきまっているが、排斥する方の投票だと、その結果は存外多少の参考になるかもしれない。そうして最後に・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ まず最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間的関係の差別である。舞踊や劇は一定容積の舞台の上で演ぜられ、観客は自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・それでいわゆる立体映画ができると、われわれの二つの目の間隔が急に突拍子もなくひろがったと同様な不自然な異常な効果を生ずることになり、従って映像の真実性が著しく歪曲することになるのではないかと想像される。 ともかくも、現在の映画のスクリー・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫