・・・実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光輝のあるもののように感ずる。 私は多くの不良少年の事実に就いては・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・なぜなら、自然のみが、どこに行っても、莞爾として、遊子を懐にいれて欺かないからだ。しかし、変らないというばかりでは、このことは説明されない。一脈故郷の空や、原野と、ながめの相通ずるものがあるがためである。 初期のロマンチストを目して、笑・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・私は昨日からの餒じさが、目を覚ますとともに堪えがたく感じてきて、起き上る力もない。そっと仰向きに寝たまま、何を考える精もなく、ただ目ばかりパチクリ動かしていた。 見るともなく見ると、昨夜想像したよりもいっそうあたりは穢ない。天井も張らぬ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ひとびとが宵の寝苦しい暑さをそのまま、夢に結んでいるときに、私はひんやりした風を肌に感じている。風鈴の音もにわかに清い。蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・僕もそんなことを感じていたような気がする」 酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で残っていたビールを一息に飲んでしまった。「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、実際窓というものが好きで堪らない・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・という言葉の悲哀を、つくづく身に感じます。 ツイ近ごろのことです、私は校友会の席で、久しぶりで鷹見や上田に会いました。もっともこの二人は、それぞれ東京で職を持って相応に身を立てていますから、年に二度三度会いますが、私とは方面が違うので、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・倶楽部員は二郎の安全を祝してみな散じゆき、事務室に居残りしは幹事後藤のみとなりぬ。十蔵は受付の卓に倚りて煙草を吹かし、そのさまわがこの夜倶楽部に来し時と変わらず見えたり、ただ口元なる怪しき微笑のみ消えざるぞあやしき。 余は二郎とともに倶・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・と言って莞爾。 能く見ると母の顔は決して下品な出来ではない。柔和に構えて、チンとすましていられると、その剣のある眼つきが却って威を示し、何処の高貴のお部屋様かと受取られるところもある。「イイえどう致しまして」とお政は言ったぎり、伏目・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫