・・・自分は閑静な車輛のなかで、先年英国のエドワード帝を葬った時、五千人の卒倒者を出した事などを思い出したりした。 汽車を下りて車に乗った時から、秋の感じはなお強くなった。幌の間から見ると車の前にある山が青く濡れ切っている。その青いなかの切通・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆を疑って、六ずかしい漢字を先生に書かして見たら、旨くはないが、劃だけは間違なく立派に書いたといって感心していた。これらの準備か・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・彼の画面に対して、あんなにも透視的の奥行きをあたへたり、適度の明暗を反映させたり、よつて以てそれを空間から切りぬき、一つの落付きある完成の気分をそへる額縁に対して、どんな画家も無関心でゐることができないだらう。同じやうに我等の書物に於ける装・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。「それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。」 と叫びなが・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・―― 演説が終ると、獄舎内と外から一斉に、どっと歓声が上がった。 私は何だか涙ぐましい気持になった。数ヶ月の間、私の声帯はほとんど運動する機会がなかった。また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰え、文政以後また痕迹を留めず。 和歌は万葉以来、新古今以来、一時代を経るごとに一段の堕落をなしたるもの、真淵出でわずかにこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じゅうしたれば、・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・僕がやっと体骼と人格を完成してほっと息をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思うね。こんな工合さ。もし、ホンブレンさま、ここの所で私もちっとばかり延びたいと思いまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸取りつかせて下さいま・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・何せそう云ういい天気で、帆布が半透明に光っているのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそやがて完成さるべき、世界ビジテリアン大会堂の、陶製の大天井かと思われたのであります。向うには勿論花で飾られた高い祭壇が設けられていました。そのと・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・朝鮮、中国や日本のように漸々と、封建的なのこりものをすてて近代民主化を完成しようと一歩ふみ出した国。アメリカ、イギリスのように資本主義の下での民主主義を完成して更により発展した民主主義社会への見とおしにおかれている国。ソヴェト同盟のように、・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・同じ旅行でも関西方面より北の方がいいと思います。大阪、京都などのような都会は、違った文化が見られて悪るくはないと思いますが、旅として見て、東海道あたりの海が見え、松があるといった美しいだけで、唯長々と眠につづいている整然とした風景よりも、変・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
出典:青空文庫