・・・私には何の感想もなかった。ただ私の疲労をまぎらしてゆく快い自動車の動揺ばかりがあった。村の人が背負い網を負って山から帰って来る頃で、見知った顔が何度も自動車を除けた。そのたび私はだんだん「意志の中ぶらり」に興味を覚えて来た。そして、それはま・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 小川を渡って、乾草の堆積のかげから、三人の憲兵に追い立てられて、老人がぼつ/\やって来た。頭を垂れ、沈んで、元気がなかった。それは、憲兵隊の営倉に入れられていた鮮人だった。「や、来た、来た。」 丘の病院から、看護卒が四五人、営・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬ばりついている。彼は唾液を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。「どうしたんだ?」 中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。「道・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 処々に、うず高く積上げられた乾草があった。 荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。 室内には、古いテーブルや、サモールがあった。刺繍を施したカーテンがつるしてあった。でも、そこからは、動物の棲家のように、異様な毛皮と、獣油・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・やがて、橇に積んだボール紙の箱を乾草で蔽いかくし、馬に鞭打って河のかなたへ出かけて行った。「あいつ、とうとう行っちゃったぞ!」 呉清輝は、田川の耳もとへよってきて囁いた。「どうしてそれが分るかい!」「どうしても、こうしてもね・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・殺伐な、無味乾燥な男ばかりの生活と、戦線の不安な空気は、壁に立てかけた銃の銃口から臭う、煙哨の臭いにも、カギ裂きになった、泥がついた兵卒の軍衣にも現れていた。 ボロ/\と、少しずつくずれ落ちそうな灰色の壁には、及川道子と、川崎弘子のプロ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 馭者は橇の中で腰まで乾草に埋め、頸をすくめていた。若い、小柄な男だった。頬と鼻の先が霜で赭くなっていた。「有がとう。」「ほんとに這入ってらっしゃい。」「有がとう。」 けれども、若い馭者は、乾草をなお身体のまわりに集めか・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いのだ。その間、一年半ばかりのうちに彼は、ロシア人を殺し、つ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ ドミトリー・ウォルコフは、乾草がうず高く積み重ねられているところまで丘を乗りぬけて行くと、急に馬首を右に転じて、山の麓の方へ馳せ登った。そこには屋根の低い、木造の百姓家が不規則に建ち並んでいた。馬は、家と家との間の狭い通りへ這入って行・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・しかも、一新聞記者の無味乾燥な報告ではない。作家としての独歩の面目は、到るところに発揮されて、当時の海戦と艦上生活の有様をヴィヴィットに伝え得るものがある。軍艦の水兵たちや、戦地に行った者たちが、内地からの郵便物を恐ろしく焦れ待つことは、多・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
出典:青空文庫