・・・あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介で、肥前国島原産の志士中村貞太郎、仮名北有馬太郎に嫁した須磨子と、病身な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・紫陽花と矢車草と野茨と芍薬と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華やかな花屋のような部屋であった。彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・まア、斎藤といっておきますが、これも仮名ですから、そのおつもりで。」 高田はそう梶に云ってから、この栖方は、特種な武器の発明を三種類も完成させ、いま最後の一つの、これさえ出来れば、勝利は絶対的確実だといわれる作品の仕上げにかかっている、・・・ 横光利一 「微笑」
・・・彼の著として伝わっている『仮名性理』あるいは『千代もと草』は、平易に儒教道徳を説いたものであるが、しかし実は、彼の著書であるかどうか不明のものである。同じ書は『心学五倫書』という題名のもとに無署名で刊行されていた。初めは熊沢蕃山が書いたと噂・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫