・・・とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。 私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・されば高等学校がベースボールにおける経歴は今日に至るまで十四、五年を費せりといえどもややその完備せるは二十三、四年以後なりとおぼし。これまでは真の遊び半分という有様なりしがこの時よりやや真面目の技術となり技術の上に進歩と整頓とを現せり。少く・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔に・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・四辺の静寂が四箇月ぶりで、彼に温泉のように甘美なものに感じられた。 うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 鐘が鳴るのに、まだ、まだ時間はあるというくつろぎ、云い難い甘美がある。朝は薄寒いようで、賑やかでも引緊った空気は、昇る太陽につれて膨み機嫌よくなって来る。手に触り体が触れるあらゆる建物の部分は、幸福に乾いてぽかぽかしている。見えない運動場・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・アンナの不幸を目にも心にもまざまざと描きつくした悲劇であるにかかわらず、私たちがそれを読んでいるときに受ける感動は美しくて、その震撼には不思議な甘美さがこめられている。この芸術の秘密は何だろう。すべてのすぐれた文学が、悲劇でさえも、その悲し・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
・・・撓いつつ甘美な苦痛を感じて、折れないという自覚のよろこび。 抽象的なことを喋って御免なさい。でも時々はこれもいるのです。私の精神衛生の見地からね。ああ、私共は、沢山沢山感じて生きているのだからね。 ――○―― この頃沢山読・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・うっとり見ていると肉体がいつの間にか消え失せ、自分まで燃え耀きの一閃きとなったように感じる。甘美な忘我が生じる。 やがて我に還ると、私は、執拗にとう見、こう見、素晴らしい午後の風景を眺めなおしながら、一体どんな言葉でこの端厳さ、雄大な炎・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 軍備の完備した国家は、自国を防禦する筈のその軍力を以て祖国を失ってしまいます。 物質の豊かな国民は、その豊かな物質に首を絞められます。 斯様にして、権利を所有するが為に却って、魂を汚す彼女等は、同時に又その豊かな――そして其を・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ こんな完備した設備の産院は日本ではじめてばかりではない。東洋一だ。「失業と多産のためにほとんど飢餓にひんしているこの階級の親たちにとっては全く天来の福音である」と新聞の記事はかきたてている。 プロレタリアートの姉妹たち! われ・・・ 宮本百合子 「「市の無料産院」と「身の上相談」」
出典:青空文庫