・・・ 或人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先は・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ とその小さい子がたずねます。 これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。 ミシンはすこし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、呻くやら、そうして翌る朝は、魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も帰らず、古くからの夫の知合いの出版のほ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・先生が、この池のものについておかきになったのが出ている。先生がたのお手伝いをして、例の小船で調べて回ったこともあったが、とにかくおもしろい現象である。 先年水温を測る時の目じるしに、池の中のところどころに立てておいた竹ざおが雪の薄くつも・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・しかし先生はこの薄暗く湿った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石菖の水鉢を置いた子窓の下には朱の溜塗の鏡台がある。芸者が弘めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・あすこはあなたがたも旨いと云った。私も旨いと思います。ただし、あすこの芸術は内容を発現するための芸術でしょう。 第三の、内容とは比較的関係のない芸術になると、妙ですな。内容を賞翫して好いんだか、芸術を賞翫して好いんだか分りません。十段目・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・改革の後も役夫・職人の輩はただちに国事にかかわることなく、議員の種族はいぜんたる旧の議員にして、ただこの改革ありしがために、早くすでに議員に戒心を抱かしめ、期せずしておのずから下等の人民を利したりという。 ゆえに政府たる者が人民の権を認・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気を脱して世に媚びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰く吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・おれはあけがた、東の空のひかりと、西の月のあかりとで、たしかにそれを見届けた。しかしみんなももう帰ってよかろう。粟はきっと返させよう。だから悪く思わんで置け。一体盗森は、じぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来た・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・三、あなたがたは、未亡人が御希望ですか。 こういう不自然な質問に対して誰が、いやだ、と答えないでしょう。あなたがたは、つよい感情をこめてお答えなさるでしょう。わたしたちの人生は、まだ無傷です。傷ついたにせよ、若い命がすぐそれを癒・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
出典:青空文庫