・・・ そんなお君に中国の田舎から来た親戚の者は呆れかえって、葬式、骨揚げと二日の務めをすますと、さっさと帰って行き、家の中ががらんとしてしまった夜、異様な気配にふと眼をさまして、「誰?」 と暗闇に声を掛けたが、答えず、思わぬ大金をも・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ がらんとしたその電車が行ってしまうと、向い側のプラットホームに人影が一つ蠢いていた。今降りたばかりの客であろう。女らしかった。そわそわとそのあたりを見廻しながら、改札口を出て暫く佇んでいたが、やがてまた引きかえして新吉の傍へ寄って来た・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・そして最後には考え得られる限りの残虐な自殺の方法を空想し、その積み重ねによって眠りを誘おうとする。がらんとした溪間の旅館の一室で。天井に彼らの貼りついている、死んだように凝っと貼りついている一室で。―― 2 その日は・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・会を彼女に与えた――長い年月の間暮して見た屋根の下からも、十年も旦那の留守居をして孤りの閨を守り通したことのある奥座敷からも、養子夫婦をはじめ奉公人まで家内一同膳を並べて食う楽みもなくなったような広いがらんとした台所からも。「御新造さま・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・三島駅に降りて改札口を出ると、構内はがらんとして誰も居りませぬ。ああ、やはり駄目だ。私は泣きべそかきました。駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・そっと店の扉を開け、内を窺っても、店はがらんとして誰もいない。私は入った。相続く銃声をたよりに、ずんずん奥へすすんだ。みると薄暮の中庭で、女房と店の主人が並んで立って、今しも女房が主人に教えられ、最初の一発を的に向ってぶっ放すところであった・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・大伽藍。いいえ、そんなんじゃない。もっと、もっと神々しい。「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青味がかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくな・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ちょうど子供がおもちゃの積み木で伽藍の雛形をこしらえようとしているのとよく似た仕事である。それが多少でも伽藍らしい格好になるかならないかもおぼつかないくらいである。しかし古来の名匠は天然の岩塊や樹梢からも建築の様式に関する暗示を受け取ったと・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
出典:青空文庫