・・・だが、云いも終らぬ中に、ナポレオンの爪はまた練磨された機械のように腹の頑癬を掻き始めた。彼は寝台から飛び降りると、床の上へべたりと腹を押しつけた。彼の寝衣の背中に刺繍されたアフガニスタンの金の猛鳥は、彼を鋭い爪で押しつけていた。と、見る間に・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙ってやめなかった。この蓋世不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒す暇を与えなかった。そうして彼の田虫は彼の腹へ癌のようにますます深刻に根を張っていった。この腹に田虫・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ ネーにはナポレオンのこの奇怪な哄笑の心理がわからなかった。ただ彼に揺すられながら、恐るべき占から逃がれた蛮人のような、大きな哄笑を身近に感じただけである。「陛下、いかがなさいました」 彼は語尾の言葉のままに口を開けて、暫くナポ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・従ってあの数多い麦は、かなり機械的な繰り返しをもって、ただ画面上の注意のみによって描かれたものであろう。個々の麦のおのおのに画家の初発的な注意や感情がこもっているとは、どうしても感ぜられない。いわんやあの麦畑の全体を直観した時の画家の感じは・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・私はそれほどの期待もかけず、機会があったらと頼んでおいたのであったが、たしか八月の五、六日ごろのことだったと思う、夜の九時ごろに谷川君がひょっこりやって来て、これから蓮の花を見に行こうという。もう二、三日すれば、お盆のために蓮の花をどんどん・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫