・・・彼らはまた穀類の出来不出来の評判を尋ね合っている。気候が青物には申し分ないが、小麦には少し湿っているとの事。 この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中をも・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写した美麗な巻で、一勇斎国芳の門人国友の挿画数十枚が入っている。 この游は安政二年乙卯四月六日に家を発し、五日間の旅をして帰ったものである・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・先日石崎に申附候亀甲万一樽もはや相届き候事と存じ候。 読んでしまった大野は、竹が机の傍へ出して置いた雪洞に火を附けて、それを持って、ランプを吹き消して起った。これから独寝の冷たい床に這入ってどんな夢を見ることやら。・・・ 森鴎外 「独身」
・・・ ―――――――――――― 私が東京に帰ってから、桜が咲き桜が散って、気候は暖いと云う間もなく暑くなった。二階に登って向いの下宿屋を見れば、そこでも二階の戸を開け放っている。間数が多いので、F君や安国寺さんのいる部屋・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・ギヨオテが伊太利紀行もおもい出でられておかし。温泉を環りて立てる家数三十戸ばかり、宿屋は七戸のみ。湯壺は去年まで小屋掛のようなるものにて、その側まで下駄はきてゆき、男女ともに入ることなりしが、今の混堂立ちて体裁も大に整いたりという。人の浴す・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ 此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニストと雖も、資本主義と云う社会を、敵にこそすれ、敵としたるがごとくしかく有力な社会機構だと云うことをも認めるであろう。 しかしながら、此の資本主義機構は、崩壊しつつ・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があまりなく、一時に全部の樹の紅葉がそろうこともあった。それは大体十一月三日の前後で、四、五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華とい・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・ 木下は青年のころゲエテの『イタリア紀行』を聖書のごとく尊んでいた。この書が彼にいかに強く影響しているかは、『地下一尺集』の諸篇を読む人の直ちに認めるところであろう。確かに『イタリア紀行』のゲエテは彼のよき師であった。しかし彼はこの師に・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・人間の作る機械よりもはるかに精巧な機構を持った植物が、しかも実に豊富な変様をもって眼の前に展開されている。自分たちが今いるのはわびしい小さな電車の中ではなくして、実ににぎやかな、驚くべき見世物の充満した、アリスの鏡の国よりももっと不思議な世・・・ 和辻哲郎 「寺田さんに最後に逢った時」
・・・五 先生が偏屈な奇行家として世間から認められているのは、右のような努力の結果である。ひいき眼なしに正直に言って、先生ほど常識に富んだ人間通はめったにない。また先生ほど人間のなすべき当然の行ないを尋常に行なっていた人もまれであ・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫