・・・妬甚しければ其気色言葉も恐敷冷して、却て夫に疏れ見限らるゝ物なり。若し夫不義過あらば我色を和らげ声を雅にして諫べし。諫を聴ずして怒らば先づ暫く止めて、後に夫の心和ぎたる時又諫べし。必ず気色を暴し声をいらゝげて夫に逆い叛ことなかれ。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・顔は賢そうで、煎じ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適っているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様式によって、主人の趣味に合うように整頓してある。器具は特別に芸術家の手を煩わして図案をさせたものである。書架は豊・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 悌が最も素直に一同の希望を代表して叫び、彼等は喜色満面で食卓についた。ところが、変な顔をして、ふき子が、「これ――海老?」といい出した。「違うよ、こんな海老あるもんか」「海老じゃないぞ」「何だい」 口々の不平を・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客をふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけ・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・当時の文学の混乱もこの頃云わば底をついた形となって、漸々観念的な不安に停滞することも、荷風の境地に寄食することも許すべきでないとする一種の見解、気力が生じ始めた。作家の精神と肉体とは現実に向って先ず活々と積極性をもって動き出さなければ文学に・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・働こうとすれば世間が働けなくする、といって、もうどこにも勤めず、甥である父のところに寄食していた。 台所の高窓のところで、茶をのんで、ひとりごとを云っている下島のおじさんのそばによって、ピクつく頬を下から見上げていると、黒木綿の羽織のあ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・それをのんでいて、いくらかずつおなかのいやな気色を忘れた。 或る時、湯上りに爪を剪っていた。左の指をずっと剪って、右の方になったとき、思い出すともなく思い出して拇指の裏を見たら、魚のめのようなものは二つ、いつの間にかすっかり消えてしまっ・・・ 宮本百合子 「鼠と鳩麦」
・・・ 尾世川は、文字通り救われた喜色で面じゅうを照り輝かせた。「そう願えりゃそれに越したことはないですが。――かまわないですか、貴女みたいに若い御婦人の行かれるところじゃ無いんじゃないですか」「その人を訪ねて行くんですもの平気でしょ・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅が切腹する日だと、母・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ここには石浦というところに大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人なら幾らでも買う。宮崎は・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫