・・・丁度上田万年博士が帰朝したてで、飛白の羽織に鳥打帽という書生風で度々遊びに来ていた。緑雨は相応に影では悪語をいっていたが、それでも新帰朝の秀才を竹馬の友としているのが万更悪い気持がしなかったと見えて、咄のついでに能く万年がこういったとか、あ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。 その頃沼南の玄関にYという書生がいた。文学志望で夙くから私の家に出入していた。沼南が外遊してからは書生の雑用が閑になったからといって・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・七 田端の月夜 三十六年、支那から帰朝すると間もなく脳貧血症を憂いて暫らく田端に静養していた。病気見舞を兼ねて久しぶりで尋ねると、思ったほどに衰れてもいなかったので、半日を閑談して夜るの九時頃となった。暇乞いして帰ろうとする・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・折から閣員の一人隈山子爵が海外から帰朝してこの猿芝居的欧化政策に同感すると思いの外慨然として靖献遺言的の建白をし、維新以来二十年間沈黙した海舟伯までが恭謹なる候文の意見書を提出したので、国論忽ち一時に沸騰して日本の危機を絶叫し、舞踏会の才子・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・窓の障子の上には、夕暮方の光線がぼんやりと染んで、頭には幾分か白髪も交って頬に寄った小皺が目立って見える……室の中には、傷いた道具が僅かばかり並べられてあるばかりで、目を惹くような貴重のものも見当らない。女は、この広い世界にたゞ独り見捨てら・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・整列や敬礼の訓練をしたり、愚にもつかぬ講演を聞いたりするために、あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費したくないですからね、整列や敬礼が上手になっても、原子爆弾は防げないし、それに講演を聴くと、一種の講演呆けを惹き起しますからね・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・あまりにも暗い刺戟的な作――つまりはその基調となっている現在の生活を棄てなければ、出て行かなければ――それが第一の問題なのだが、ところがどうだ?……ますます深味に落ちて行くばかりではないか? 「蠢くもの」以前、またその後の生活だって、けっし・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ すべての精神的に貴重なものが、そうであるように、恋愛もまた社会状態、経済的機構のいびつのために、みじめに押しまげられている。恋愛についてこうした理想的な要請をする場合に、私たちはそのことを考えると力抜けがするのを感じる。これはどうして・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
出典:青空文庫