・・・ 帰朝後ただ一度浅草で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
旧臘押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。しかしせっかくの教訓も肝心な市民の耳に入らず、また心にしみなけ・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・エヴェレストの頂上をきわめようとして、それがために貴重な生命をおとしても悔やまないようになる。それで、事によるとデパートのはやる理由のことごとくが必ずしも便利重宝一点張りのものでもないかもしれない。そうでないとすると小売り商の作戦計画にはこ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・四十四年帰朝後工科大学教授に任ぜられ、爾来最後の日まで力学、応用力学、船舶工学等の講座を受持っていた。大正七年三菱研究所の創立に際してその所長となったが、その設立については末広君が主要な中心人物の一人として活動した事は明白な事実である。大正・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・としてN先生が青木堂で買って持って行ったバン・フーテンのココア、それからプチ・ポアの罐詰やコーンド・ビーフのことを思い出したので、やっとそれが明治四十二年すなわち自分の外国留学よりは以前のことであって帰朝後ではなかったことがわかった。なぜか・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・モダーンな日記帳にはその年の干支など省略してあるのもあるくらいである。実際丙午の女に関する迷信などは全くいわれのないことと思われるし、辰年には火事や暴風が多いというようなこともなんら科学的の根拠のないことであると思われるが、しかしこれらは干・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 自分が高等学校を出た後まもなく先生は京都大学、ついで東京大学に移られ、それから留学に出かけられた。帰朝後いよいよ東京へ落ち着かれたころは、西片町へんにしばらくおられて、それから曙町へ生涯の住居を定められた。自分はそのころ小石川原町にい・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・それが生徒に腹を立ててどなりつけるのではなくて、いったいどうして生徒がそういう不都合をあえてするかということに関する反省と自責を基調とする合理的な訓戒であったのだから、元来始めから悪いにきまっている生徒らは、針でさされた風船玉のように小さく・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された。新橋駅(今の汐留へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・安井氏のを見ると同氏帰朝後三越かどこかであった個人展の記憶が甦って来て実に愉快である。山下氏のでも梅原氏のでも、近頃のものよりどうしても両氏の昔のものの方が絵の中に温かい生き血がめぐっているような気がするのである。故関根正二氏の「信仰の悲み・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
出典:青空文庫