・・・母の危篤に駈けつけるときには、こんな思いであろうか。私は、魯鈍だ。私は、愚昧だ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけが・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・だんだん親しくなり、そのうちに父上の危篤の知らせがあって、彼はその故郷からの電報を手に持って私の部屋へはいるなり、わあんと、叱られた子供のような甘えた泣き声を挙げた。私は、いろいろなぐさめて、すぐに出発させた。そんな事があってから、私たちは・・・ 太宰治 「リイズ」
・・・しかし特殊の題目について重なる学術国の重なる研究者の研究の結果を up to date に調べ上げて、その題目に対する既得知識の終点を究める事は可能である。これを究めてどこまでが分っているかという境界線を究め、しかる後その境界線以外に一歩を・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・尤も科学者の中には往々そういう大事な根本義を忘れて、自分の既得の知識だけでは決して不可能を証明することの出来ない事柄を自分の浅はかな独断から否定してしまって、あとでとんだ恥をかくという例もあえて稀有ではない。こうした独断的否定はむしろ往々に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・話の様子で察してみると、誰かこの老婆の身近い人が、川崎辺の病院にでもはいっていて、それが危篤にでも迫っているらしい。間に合うかどうかを気にしているのを、男がいろいろに力をつけて慰めてでもいるらしかった。こういう老婆を見ると、いかにも弱々しく・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 危篤な病人の枕もとへはおおぜいの見舞い人が詰めかける。病人の頭の上へ逆さまに汗臭い油ぎった顔をさし出して、むつかしい挨拶をしむつかしい質問をしかける。いっそう親切なのになると瀕死の人にいやがらせを言う。そうして病人は臨終の間ぎわまで隣・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬を吹き込む事が第一義ではあるまいか。これには教育者自身が常にこの不思議を体験している事が必要である。既得の知識を繰り返して受け売りするだけでは不十分であ・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・この暑さに襟のグタグタになるほど汗を垂らしてまで諸君のために有益な話をしなければ今晩眠られないというほど奇特な心掛は実のところありません。と云ったところでこう見えても、満更好意も人情も無いわがまま一方の男でもない。打ち明けたところを申せば今・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・「この盾何の奇特かあると巨人に問えば曰く。盾に願え、願うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。人に語るな語るとき盾の霊去る。……汝盾を執って戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり。呪われて後蓋天蓋地の大歓喜に逢うべし。只盾を伝え受くるものに・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にする・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫