・・・と言いさま、きゅうにばたばたとはげしく煽ぎだす。「まあ」と藤さんは赤い顔をしている。 蜜柑箱を墨で塗って、底へ丸い穴を開けたのへ、筒抜けの鑵詰の殻を嵌めて、それを踏台の上に乗せて、上から風呂敷をかけると、それが章坊の写真機である・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ポチは、逃げてゆく赤毛を少し追いかけ、立ちどまって、私の顔色をちらと伺い、きゅうにしょげて、首を垂れすごすご私のほうへ引返してきた。「よし! 強いぞ」ほめてやって私は歩きだし、橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。 むかしポチ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・鏝で勢いよくきゅうとなでて、ちりちりぱっとくくりをつけて、パイプをくわえて考え込んで、モンパリー、チッペラリー、ラタヽパン。そこでノアルで細筆のフランス文字、ブルバールデトセトラ。 四 脚は一八〇プロセントく・・・ 寺田寅彦 「二科狂想行進曲」
・・・「それから私もちょっと用事ができて、きゅうにいったんかえることになりましたので」道太は話しだした。「どうもありがとう。わしはまあこれで心配はないから」兄はそう言って、道太が思ったよりさっぱりしていた。 道太はやっと安心して、病室・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹のかきゅうに陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・何か話し掛けたいと思いましたが、どうもあんまり向うが寂かなので、私は少しきゅうくつにも思いました。 けれども、ふと私は泉のうしろに、小さな祠のあるのを見付けました。それは大へん小さくて、地理学者や探険家ならばちょっと標本に持って行けそう・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながらそれでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。 空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌス・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・タネリは、また口のなかで、きゅうくつそうに云いました。「雪のかわりに、これから雨が降るもんだから、 そうら、あんなに、雨の卵ができている。」 そのなめらかな青ぞらには、まだ何か、ちらちらちらちら、網になったり紋になったり、ゆれて・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・自然につく調子で、体をゆすぶりながら、かえしてゆくとき、鉄きゅうの上で鉄のせんべい焼道具がガチャンと鳴った。 店さきにたって、うっとりとその作業に見とれている子供には、職人たちの身ぶりと音との面白さがこの上なかった。いくら見ていても面白・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・一番戸に近い側の女たちは、後の本棚と机との狭い間できゅうくつそうに床几にかけ、しかもそんなことには頓着しない風で、一生懸命手帳に何か書いている。 質素な服装。がっしりした肩つきだ。若いの、中年の、いれまじった顔は、どれも自分たちの思考力・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
出典:青空文庫