・・・そういう行為をあえてするという事は、すなわち彼が発狂している事の確かな証拠であるとこういう至極もっともらしい理由から、彼は狂気しているという事にきわめをつけられた。その結果として、それ以来はその前後の足を、たしか一本ずつ重い冷たい鉄の鎖で縛・・・ 寺田寅彦 「解かれた象」
・・・五 ある日の午後も、隣りの狂気鳥が、しきりにでたらめのを囀っていた。 三声五声抱えの芸名なんかを呼んでいたかと思うと、だんだん訳がわからなくなって、調子に乗ってぎゃあぎゃあ空虚な声で饒舌りつづけていた。「またやってい・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・尤も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『阿菊さん』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根裏に登らずとも、自分は山の手の垣根道で度々出遇ってびっくりしているのである。この事を進めていえば、これまで種々なる方面・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・芸者とも女優ともつかぬ此のけばけばしい風俗で良家を訪問することは其家に対しては不穏な言語や兇器よりも、遥に痛烈な脅嚇である。むかしの無頼漢が町家の店先に尻をまくって刺青を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うよ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・しかもただ一歩で、すぐ捉へることができるやうに、虚偽の影法師で欺きながら、結局あの恐ろしい狂気が棲む超人の森の中へ、読者を魔術しながら導いて行く。 ニイチェを理解することは、何よりも先づ、彼の文学を「感情する」ことである。すべての詩の理・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・さもなければ狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。 私は自分が怖くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私は意識を回復した。静かに心・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事も覚・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ するとてぐす飼いの男は、狂気のようになって、ブドリたちをしかりとばして、その繭を籠に集めさせました。それをこんどは片っぱしから鍋に入れてぐらぐら煮て、手で車をまわしながら糸をとりました。夜も昼もがらがらがらがら三つの糸車をまわして糸を・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
出典:青空文庫