・・・尽して奪い返したデリケエトのナイフが、損傷していないかどうか、たんねんに調べ、無事である事を見とどけてから、ハンケチに包んで右の袂の中にしまい込み、やっと、ほっとしたような顔になり、私たち二人を改めてきょろきょろ見比べ、「なんですか? ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・一時跡方もなく消失せてしまった二十歳時分の記憶を呼び返そうと、自分はきょろきょろしながら歩く。 無論それらしい娘も女房も今は見当てられようはずはない。しかし深川の大通りは相変らず日あたりが悪く、妙にこの土地ばかり薄寒いような気がして、市・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・それで車の上で感服したような驚いたような顔をして、きょろきょろ見廻して来ると所々の辻々に講演の看板と云いますか、広告と云いますか、夏目漱石君などと云うような名前が墨黒々と書いて壁に貼りつけてある。何だか雲右衛門か何かが興行のため乗り込んだよ・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・』 私は若子さんの後に尾いて、停車場の内へ這入ろうとした時、其処に物思わしげな顔をしながら、きょろきょろ四辺を見廻して居た女の人を見ました。唯一目見たばかりですが、何だか可哀相で可哀相でならない気が為たのでした。 そうねえ、年は、二・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・右左をきょろきょろ見まわして、見えるほどのものは一々見逃すまいという覚悟である。しかしそれがためにかえって何も彼も見るあとから忘れてしまう。 暗い丈夫そうな門に「質屋」と書いてある。これは昔からいやな感じがする処だ。 竹垣の内に若木・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 狼は、どうしたらいいか困ったというようにしばらくきょろきょろしていましたが、とうとうみんないちどに森のもっと奥の方へ逃げて行きました。 そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、「悪・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・なんて云いながら目をさまして、しばらくきょろきょろきょろきょろしていましたが、いよいよそれが酒屋のおやじのとのさまがえるの仕業だとわかると、もうみな一ぺんに、「何だい。おやじ。よくもひとをなぐったな。」と云いながら、四方八方から、飛びか・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、そ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・あのはつの富樫と同じ名だったから、左衛門とはどういうことだろうかときょろきょろした。 こんなことは、みんな父がイギリスに行っている留守の間のできごとであった。〔一九四八年三月〕 宮本百合子 「道灌山」
・・・彼はきょろきょろしながら新鮮な空気を吸いに泥溝の岸に拡っている露店の青物市場へ行くのである。そこでは時ならぬ菜園がアセチリンの光りを吸いながら、青々と街底の道路の上で開いていた。水を打たれた青菜の列が畑のように連なって、青い微風の源のように・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫