・・・達雄は場末のカフェのテエブルに妙子の手紙の封を切るのです。窓の外の空は雨になっている。達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行の間に妙子の西洋間が見えるような気がする。ピアノの蓋に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるよう・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・B じゃあその着ると姿の見えなくなるマントルを取ってくれ給え。さあ、行こう。A 夜霧が下りているぜ。 ×声ばかりきこえる。暗黒。Aの声 暗いな。Bの声 もう少しで君のマントル・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・「夏は白い着物を着る時だよう。――」 良平も容易に負けなかった。「雨の降る時分は夏なもんか。」「莫迦! 白い着物を着るのは土用だい。」「嘘だい。うちのお母さんに訊いて見ろ。白い着物を着るのは夏だい!」 良平はそう云う・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・父はややしばらく自分の怒りをもて余しているらしかったが、やがて強いてそれを押さえながら、ぴちりぴちりと句点でも切るように話し始めた。「いいか。よく聞いていて考えてみろ。矢部は商人なのだぞ。商売というものはな、どこかで嘘をしなければ成り立・・・ 有島武郎 「親子」
・・・さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 其処へレリヤは旅行の時に着る着物に着更えて出て来た。その着物は春の頃クサカが喰い裂いた茶色の着物であった。「可哀相にここに居たのかい。こっちへ一しょにおいで」とレリヤがいった。そして犬を連れて街道に出た。街道の傍は穀物を刈った、刈株の・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 姉さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」 舌打の高慢さ、「おらも乗って行きゃ小遣が貰えたに、号外を遣って儲け損なった。お浜ッ児に何にも玩弄物が買えねえな。」 と出額をがッくり、爪尖に蠣殻を突ッかけて、赤蜻蛉の散ったあと・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さんが、杖に縋ってどこからか出て来て、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬じゃなかったんですもの。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 突如噛着き兼ねない剣幕だったのが、飜ってこの慇懃な態度に出たのは、人は須らく渠等に対して洋服を着るべきである。 赤ら顔は悪く切口上で、「旦那、どちらの麁そそうか存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。こ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・十日ばかり以前から今日あることは判っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」 お千代は枝折戸の外まできて、「まあえい天気なこと」 お千代は気楽に田圃を眺めて・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
出典:青空文庫