・・・今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。じかに着てはいけません。―― 津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。 堯は近・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・身を切るような風吹きて霙降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉なく堅い男ゆえ炬燵へ潜って寝そべるほどの楽もせず火鉢を控えて厳然と座り、煙草を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々陸へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀の波をかき分・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・食うものも着るものも必要なだけ購買組合からあてがわれる。俺らは、ただ金を取るために、危いことだって、気にむかないことだって、何だってやっている。内地でだってそうだ。満州でだってそうだ。ところが、彼れらは、金を取るためではなく、自分たちの生活・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・――兵たいはみんな一人一人服も着るし、飯も食うしさ……。」 商人は、ペーターが持っている二台の橇を聯隊の用に使おうとしているのであった。金はいくらでも出す、そう彼は持ちかけた。 ペーターは、日本軍に好意を持っていなかった。のみならず・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・樹を切るのは樵夫を頼んだ。山から海岸まで出すのは、お里が軽子で背負った。山出しを頼むと一束に五銭ずつ取られるからである。 お里は常からよく働く女だった。一年あまり清吉が病んで仕事が出来なかったが、彼女は家の事から、野良仕事、山の仕事、村・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、桑の嫩葉を摘みながら歌を唄っていて、今しも一人が、わたしぁ桑摘む主ぁきざまんせ、春蚕上簇れば二人着る。と唱い終ると、また他の・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・白痴が羊羹を切るように世界の事が料理されてたまるものか。元来古今を貫ぬく真理を知らないから困るのサ、僕が大真理を唱えて万世の煩悩を洗ッてやろうというのも此奴らのためサ。マア聞き玉え真理を話すから。迂濶に聞ていてはいけないよ、真理を発揮してや・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・血気熾んとわれから信用を剥いで除けたままの皮どうなるものかと沈着きいたるがさて朝夕をともにするとなればおのおのの心易立てから襤褸が現われ俊雄はようやく冬吉のくどいに飽いて抱えの小露が曙染めを出の座敷に着る雛鶯欲のないところを聞きたしと待ちた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・氏も分らぬ色道じまんを俊雄は心底歎服し満腹し小春お夏を両手の花と絵入新聞の標題を極め込んだれど実もってかの古大通の説くがごとくんば女は端からころりころり日の下開山の栄号をかたじけのうせんこと死者の首を斬るよりも易しと鯤、鵬となる大願発起痴話・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫