・・・ いかにおれの精神が腐っていたからといって、まさか恋敵のお前を利用して、金銭欲を満足させようなどとは、思いも寄らぬ、実はそれと反対、恋敵のお前に儲けさせてやりたい気持だった。この気持はそのまま、お千鶴に貧乏の苦労をさせたくないという、わ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ これはけっしてたんなる金銭の問題でないのだよ。そういう点について全然無自覚な君を、僕もまさか憎む気にはなれないが、しかし気の毒に思わずにいられないのだよ。そして単衣を買ったとか、斬髪したとか……いったい君はどんな気持でこの大事な一日一日を・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ ああ百円あったらなアと思うと、これまで金銭のことなどさまで自分を悩ましたことのないのが、今更の如くその怪しい、恐ろしい力を感じて来る。ただ百円、その金銭さえあれば、母も盗賊にはなるまいものを。よし母は盗みを為たところで、自分にその金銭・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・この有様でもお秀は妾になったのだろうか、女の節操を売てまで金銭が欲い者が如何して如此な貧乏しい有様だろうか。「江藤さん、私は決して其様なことは真実にしないのよ。しかし皆なが色々なことを言っていますから或と思ったの。怒っちゃ宜ないことよ、・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ 兵卒は、初年兵の時、財布に持っている金額と、金銭出納簿の帳尻とが合っているかどうか、寝台の前に立たせられて、班の上等兵から調べられた経験を持っていた。金額と帳尻とが合っていないと、胸ぐらを掴まれ、ゆすぶられ、油を搾られた。誰れかゞ金を・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・しかるに骨董いじりをすると、骨董には必ずどれほどかの価があり金銭観念が伴うので、知らず識らずに賤しくなかった人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。 掘出し物という言葉は元来が忌わしい言葉で、最初は土・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・去年の暮におれが仲通の骨董店で見つけて来たのだが、あの猪口は金銭で買ったものじゃあないのだ。」「ではどうなさったのでございます。」「ヤ、こりゃあ詰らないことをうっかり饒舌った。ハハハハハ。」と紛らしかけたが、ふと目を挙げて妻の方・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 婆やは小山の家に出入の者でひどくおげんの気に入っていたが、金銭上のことになるとそうそうおげんの言うなりにも成っていなかった。「そう御新造さまのようにお小遣いを使わっせると、わたしがお家の方へ申し訳がないで」 と婆やはきまりのよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・少年の時分から私は割合に金銭に淡白なほうで、余分なものをたくわえようとするような、そういう考えをきょうまで起こした覚えもない。今度という今度は、それが私に起こって来た。私もやっぱり、金でもたくわえて置いて、余生を安く送ろうとするような年ごろ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 旅行下手というものは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫